第1章:はじめに – 答えのない問題に立ち向かう「思考のコンパス」
私たちの周りは、「わからないこと」で満ち溢れています。
「日本の海岸線の総延長は?」「今、渋谷のスクランブル交差点を渡っている人は何人?」
こうした問いに、正確な答えを即座に出せる人はいません。多くの人は「見当もつかない」と考えるのをやめてしまうでしょう。しかし、もしあなたが、これらの問いに対して「だいたいこれくらいだろう」と、論理的な根拠を持って答えを導き出すことができたとしたら、世界はどのように見えるでしょうか?
物理学者が示した、思考の可能性
この思考法の名前の由来となった人物がいます。彼の名はエンリコ・フェルミ。20世紀を代表する物理学者であり、ノーベル物理学賞受賞者です。彼は、原子力の研究開発プロジェクト「マンハッタン計画」の中心人物の一人でした。
1945年7月16日、人類史上初の原子爆弾の実験がアメリカ・ニューメキシコ州の砂漠で行われました。爆心地から離れたベースキャンプで、科学者たちが固唾をのんでその瞬間を見守る中、フェルミは奇妙な行動に出ます。彼は、閃光が走り、衝撃波が到達するまでの間、ティッシュペーパーを細かくちぎり、空からひらひらと落としていたのです。
衝撃波が彼の体を通り過ぎた瞬間、風に流されたティッシュペーパーがどれだけ移動したかを目で追い、その距離を測りました。そして、彼はポケットから計算尺を取り出し、数分間計算した後、静かにこう言いました。「爆発の威力は、TNT火薬換算で約1万トン相当だろう」と。
後に、最新鋭の観測機器による詳細な分析結果が報告されました。その数値は「1万8600トン」。フェルミがその場で、紙切れと少しの計算だけで導き出した数値は、驚くほど近かったのです。
これが「フェルミ推定」の真髄を示す、あまりにも有名な逸話です。彼は、複雑な現象を支配する物理法則の深い理解と、手元にある限られた情報から本質を抜き出し、概算する能力を兼ね備えていました。
フェルミ推定とは何か?
フェルミ推定とは、このように、正確に捉えることが難しい数量を、論理的な思考プロセスを積み重ねて、短時間で概算(order-of-magnitude estimation)する手法のことです。
「概算」と聞くと、「単なる当てずっぽう」「山勘」といった、いい加減なイメージを持つかもしれません。しかし、フェルミ推定はそれらとは全く異なります。それは、未知の問題を既知の要素に分解し、知識と論理を駆使して再構築する、極めて知的な「思考のプロセス」そのものなのです。
重要なのは、最終的な数値が1の位まで完璧に一致することではありません。10倍や100倍といった桁違いの間違いをせず、おおよその規模感(オーダー)を捉えること。そして何より、その数値に至るまでの「思考の道筋」を、誰にでもわかるように説明できることが核心です。
なぜ今、フェルミ推定が必要なのか?
現代は、情報が爆発的に増加し続ける「VUCA(ブーカ)の時代」と呼ばれます。Volatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性)の頭文字を取った言葉で、未来の予測が極めて困難な時代であることを示しています。
このような時代において、私たちは前例のない問題や、答えが一つではない課題に直面する機会が急増しました。
- 「この新規事業は、どれくらいの市場規模が見込めるだろうか?」
- 「我が社のCO2排出量を30%削減するには、具体的に何をすべきか?」
- 「このSNSキャンペーンは、どれくらいのインプレッションを獲得できるだろうか?」
これらの問いに、過去のデータや決まった計算式だけで答えることはできません。情報が溢れている一方で、本当に必要な情報はどこにあるのかわからない。そんな時、手元にある断片的な情報から、物事の全体像や規模感を素早く掴む能力が、決定的な差を生むのです。
フェルミ推定は、まさにこの能力を鍛えるための最高のトレーニングです。それは、あなたに「思考のコンパス」を与えてくれます。答えのない荒野で、どちらの方向に進むべきか、その方角と距離を大まかに示してくれる、信頼できる道具となるのです。
この先、私たちはこの「思考のコンパス」の使い方を、一つずつ丁寧に解き明かしていきます。読み終える頃には、あなたもきっと、世界を「数」で捉え、論理で解き明かす面白さに目覚めているはずです。
第2章:フェルミ推定の「作法」- 4つのステップで、あなたも今日から推定マスター
フェルミ推定は、魔法ではありません。決まった手順に沿って思考を進めていけば、誰でも実践できる再現性の高いスキルです。その手順は、大きく分けて4つのステップで構成されています。
ここでは、その「作法」とも言うべき4つのステップを、一つずつ詳しく見ていきましょう。この型を身につけることが、推定マスターへの第一歩です。
ステップ1:前提確認 – 何を問われているのか?
一見、当たり前に聞こえるかもしれませんが、これが全ての土台となる最も重要なステップです。出されたお題(問い)が、具体的に「何を」「どのような範囲で」尋ねているのかを明確に定義します。
例えば、「日本にあるポストの数は?」というお題が出されたとしましょう。
ここで、すぐに計算を始めてはいけません。まず、頭の中で自問自答するのです。
- 「ポスト」とは何を指すのか?
- 街中にある、手紙を投函するための赤い郵便ポストだけか?
- コンビニ店内にあるポストも含むのか?
- 郵便局の窓口にある、局員さんが回収する投函口は数えるのか?
- 個人宅の郵便受けは当然含まないよな?
- 「日本」の範囲は?
- 本土4島だけでいいのか?沖縄や離島も含むのか?
- 海外の日本大使館にあるポストは?
このように、言葉の定義や範囲を曖昧にしたまま進めてしまうと、後々の計算が大きくずれてしまったり、議論が噛み合わなくなったりします。
このステップでのコツは、自分で「仮置き」することです。「今回の推定では、『ポスト』を、街頭に設置され、郵便事業株式会社が管理する郵便差出箱と定義します。コンビニ内設置のものも含みます」といった具合に、前提条件を自分で設定するのです。
ビジネスシーンであれば、上司やクライアントに「ここでの『ユーザー』とは、無料会員も含みますか?それとも有料会員のみを指しますか?」と確認する作業に当たります。この前提確認を怠らないだけで、あなたの思考の解像度は格段に上がります。
ステップ2:分解 – 巨大な問題を、手に負えるサイズに切り分ける
前提が固まったら、次はいよいよ問題の分解です。雲のように巨大で捉えどころのない問題を、自分が計算できるレベルの、小さな要素の掛け算や足し算に分解していきます。これがいわゆる「モデル化」や「数式化」と呼ばれるプロセスです。
「日本にあるポストの数」であれば、どのように分解できるでしょうか?
ここで重要なのは、いきなり完璧な分解を目指さないことです。まずは、最もシンプルで大きな切り口を考えてみましょう。
例えば、こんなアプローチが考えられます。
アプローチA:供給サイドから考える(設置者側の視点)
- (日本のポストの数) = (郵便局の数)×(1郵便局あたりの管轄エリアにあるポストの数)
- (日本のポストの数) = (日本の面積)÷(1ポストあたりのカバー面積)
アプローチB:需要サイドから考える(利用者側の視点)
- これは少し難しいかもしれません。「国民が手紙を出す総数」から逆算する方法ですが、かなり複雑になりそうです。
今回は、供給サイドからのアプローチの方が考えやすそうです。アプローチAの中でも、「面積」で割る方法は、都市部と過疎地で密度が全く違うため、精度を上げるのが難しそうです。
そこで、「郵便局」を起点に考えてみるのはどうでしょうか。しかし、「1郵便局あたりの管轄エリアにあるポストの数」と言われても、これもまた見当がつきません。
もっと良い分解方法はないでしょうか?
ここで思考のフレームワークが役立ちます。例えば、ポストの種類で分けてみるのはどうでしょう。
アプローチC:種類で分解する
- (日本のポストの数) = (街中にあるポストの数) + (コンビニにあるポストの数)
この分解は非常に良さそうです。なぜなら、「街中のポスト」と「コンビニのポスト」では、設置基準や数が大きく異なりそうだからです。それぞれを別々に考えた方が、より現実に近い数値を導き出せそうです。
この「分解」の精度が、フェルミ推定の質を決めると言っても過言ではありません。この時、意識すると良いのが**「MECE(ミーシー)」**という考え方です。Mutually Exclusive and Collectively Exhaustiveの略で、「モレなく、ダブりなく」という意味のロジカルシンキングの基本概念です。先ほどの「街中」と「コンビニ」という分類は、ほぼMECEに近いと言えるでしょう。
ステップ3:仮説設定 – 既知の事実から、未知の数値を導き出す
問題を手に負えるサイズに分解したら、次はその一つ一つの要素に対して、具体的な数値を「仮説」として置いていくステップです。ここが、あなたの知識、経験、そして常識が総動員される、最もクリエイティブなパートです。
先ほどの「アプローチC」を続けてみましょう。
(日本のポストの数) = (街中にあるポストの数) + (コンビニにあるポストの数)
1. コンビニにあるポストの数を推定する
こちらの方が簡単そうなので、先に考えます。
- 日本のコンビニの総店舗数は?
- これは有名な数字です。主要3社(セブン、ファミマ、ローソン)だけで5万店を超えている。全体では約5万5000店くらいではないか?(→ 仮説①:55,000店)
- ポストを設置しているコンビニの割合は?
- 私の家の近くのローソンにはあるな。セブンイレブンでも見たことがある。全ての店舗ではないかもしれないが、かなりの割合で設置されている印象だ。大手チェーンはほとんどが提携しているはず。ざっくり9割くらいではないか?(→ 仮説②:90%)
ここから、コンビニにあるポストの数は、
55,000店 × 90% = 49,500個
と計算できます。キリよく「約5万個」としておきましょう。
2. 街中にあるポストの数を推定する
こちらが本丸です。これもさらに分解して考えましょう。
- 分解案①:市区町村を基準にする
- (日本の市区町村の数)×(1市区町村あたりの平均ポスト数)
- 日本の市区町村は約1700。しかし、東京23区と地方の村では人口も面積も違いすぎるため、平均値の精度が低くなりそうだ。
- 分解案②:人口を基準にする
- (日本の人口)÷(ポスト1つあたりのカバー人口)
- これは良さそうだ。ポストの設置密度は、基本的に人口に比例するはずだから。
分解案②で進めてみましょう。
- 日本の人口は?
- 約1億2500万人。(→ 既知の事実)
- ポスト1つあたり、何人くらいの住民をカバーしているか?
- ここが最大の難関です。自分の身の回りで考えてみましょう。
- 自分の家の最寄りの駅までの道のり(徒歩10分、半径約800m)を想像する。その間にポストはいくつあるだろうか? 大きな通りに1つ、駅前に1つ、合計2つくらいか。
- このエリアに住んでいる人は何人くらいだろう? マンションや戸建てが密集しているから、数千人は住んでいそうだ。仮に3,000人だとして、ポストが2つなら、1つあたり1,500人。
- もう少し大きな視点で考えてみよう。小学校の学区くらいの範囲を想像する。1学年100人、6学年で600人。親や兄弟もいるから、1つの小学校区で2,000人~3,000人くらいか。その学区内にポストはいくつあるだろう? 3~5個くらいはありそうだ。仮に4個なら、1つあたり500人~750人。
- 感覚的には、1つのポストで1,000人前後をカバーしているイメージが妥当な気がする。(→ 仮説③:1,000人/個)
ここから、街中にあるポストの数は、
1億2500万人 ÷ 1,000人/個 = 125,000個
と計算できます。
ステップ4:結合と検証 – 答えを組み立て、現実と照らし合わせる
最後のステップです。分解して仮説を立てた数値を、元の式に当てはめて結合し、最終的な答えを算出します。そして、その答えが果たして「ありえそうな数値」なのかを検証します。
(日本のポストの数) = (街中にあるポストの数) + (コンビニにあるポストの数)
= 125,000個 + 50,000個
= 175,000個
さて、「日本全国のポストの数は約17.5万個」という答えが出ました。
ここで終わってはいけません。**「Sanity Check(正気度チェック)」**と呼ばれる検証作業を行います。
- 別の角度から検算できないか?
- 例えば、郵便配達員の視点から考えてみよう。
- 郵便配達員は何人くらいいるだろう? 郵便局員全体が約20万人。そのうち配達員が半分として10万人くらいか?
- 配達員一人が1日に担当するポストの数は? 自分のエリアを回って、回収するのは大変だ。1日に20~30個くらいが限界ではないか?
- 10万人 × 25個 = 250万個? これは多すぎる。前提がどこかおかしい。配達員は毎日全てのポストを回るわけではない。回収頻度は1日1回~数回のはず。うーん、このアプローチは難易度が高いな。
- 桁違いに間違ってはいないか?
- もし答えが「1万個」だったら? 人口1万人以上の市に1個もない計算になり、少なすぎる。
- もし答えが「100万個」だったら? 人口125人に1個の割合。コンビニより多くなり、多すぎる。
- そう考えると、「17.5万個」という数字は、極端に的外れではなさそうだ。
このように、複数の視点からチェックし、自分の出した答えの妥当性を確認する作業が非常に重要です。このプロセスを通じて、論理の穴や仮説の無理が見つかり、推定の精度がさらに向上していくのです。
ちなみに、日本郵便の公式情報(2023年時点)によると、郵便ポストの数は約17万8千本とのこと。我々の推定値「17.5万個」は、驚くほど近い結果となりました。これは、分解の仕方が適切で、仮説の肌感覚がそこそこ正しかったことを意味します。
以上が、フェルミ推定の基本的な4つのステップです。この型を繰り返し練習することで、あなたの思考はより速く、より深く、より論理的になっていくでしょう。
第3章:実践!フェルミ推定ケーススタディ – 世界は「数」でできている
理論を学んだら、次は実践です。ここでは、いくつかの異なるタイプのケーススタディを通じて、フェルミ推定の思考プロセスを体感していきましょう。題材は、古典的なものから、ビジネス、日常、そして少しトリッキーなものまで。一緒に頭に汗をかきながら、世界を「数」で解き明かす冒険に出かけましょう。
ケーススタディ1(古典編):シカゴにピアノ調律師は何人いるか?
これは、エンリコ・フェルミがシカゴ大学の学生に出したとされる、最も有名な問題です。この問題の秀逸な点は、ピアノという「モノ」から、「調律師」という「ヒト(職業)」の数を推定させる点にあります。需要と供給のバランスから答えを導き出す、典型的なフェルミ推定です。
ステップ1:前提確認
- 「シカゴ」とは、シカゴ市の行政区内を指す。
- 「ピアノ調律師」とは、それを専業としているプロフェッショナルを指す。副業の人は含めない。
ステップ2:分解
この問題は、以下の数式でモデル化できます。
(シカゴのピアノ調律師の数) = (シカゴで年間に必要とされるピアノ調律の総件数) ÷ (調律師1人が年間にこなせる件数)
この式をさらに分解していきます。
- (年間の総調律件数) = (シカゴのピアノの総数) × (1台あたりの年間平均調律回数)
- (シカゴのピアノの総数) = (シカゴの世帯数) × (ピアノを保有している世帯の割合)
これらの要素を組み合わせると、最終的なモデルは以下のようになります。
(調律師の数) = { (シカゴの世帯数) × (ピアノ保有率) × (年間調律回数) } ÷ { (1人あたり年間労働日数) × (1日あたり調律件数) }
ステップ3:仮説設定
さあ、分解した各要素に数値を当てはめていきましょう。
- シカゴの世帯数:
- シカゴの人口はどれくらいだろう? アメリカの大都市なので、ニューヨークやロサンゼルスに次ぐ規模のはず。200万~300万人くらいではないか? → 仮説:300万人
- 1世帯あたりの平均人数は? アメリカも核家族化が進んでいるだろうから、日本と同じくらいで2~3人か。 → 仮説:2.5人/世帯
- 世帯数 = 300万人 ÷ 2.5人/世帯 = 120万世帯
- ピアノ保有率:
- これは難しい。一昔前は裕福な家庭の象徴だったが、今はどうだろう。音楽教育が盛んな層や、比較的所得の高い層が持っているイメージ。学校や教会などの施設も保有している。
- 個人世帯で考えると、10世帯に1台もないかもしれない。5%(20世帯に1台)くらいか?
- 学校や公共施設などの分も考慮して、少し多めに見積もってみよう。 → 仮説:10% (つまり10世帯に1台相当)
- ピアノ総数 = 120万世帯 × 10% = 12万台
- 年間平均調律回数:
- プロのピアニストなら頻繁に行うだろうが、一般家庭ではどうだろう。年に1回やれば良い方ではないか。何年も調律していない家庭も多いだろう。
- 一方で、コンサートホールや学校のピアノはもっと頻繁に行うはず。
- 全てのピアノが平均で、2年に1回くらい調律されると仮定してみよう。→ 仮説:0.5回/年
- 年間総調律件数 = 12万台 × 0.5回/年 = 6万件/年
- 調律師1人あたりの年間労働日数:
- 週休2日として、1年(52週)× 5日 = 260日。
- 祝日や夏休み、病欠などを考慮して、少し引いておこう。→ 仮説:220日/年
- 1日あたりの調律件数:
- ピアノの調律には時間がかかりそうだ。2~3時間はかかるのではないか。
- 移動時間も考慮すると、1日にこなせるのは2件、多くても3件が限界だろう。→ 仮説:2件/日
- 調律師1人が年間にこなせる件数:
- 220日/年 × 2件/日 = 440件/年
ステップ4:結合と検証
全てのピースが揃いました。結合して最終的な答えを導き出します。
(調律師の数) = (年間総調律件数) ÷ (1人あたりの年間処理件数)
= 60,000件 ÷ 440件/人
≒ 136人
答えは「約136人」となりました。
検証:
シカゴという大都市に、ピアノ調律師が136人。多すぎず、少なすぎず、なんとなく妥当な気がしませんか? もし答えが10人だったら、6万件の需要をさばけません。もし1000人いたら、仕事がなくて食べていけないでしょう。
このように、需要と供給のバランスから導き出した答えは、大きな間違いを起こしにくいという特徴があります。この思考プロセスこそが、フェルミ推定の価値なのです。
ケーススタディ2(ビジネス編):日本のスターバックスの年間売上高は?
次は、より身近なビジネスを題材にしてみましょう。コンサルティングファームの面接などでも頻出する、企業の売上推定問題です。企業のビジネスモデルを理解することが鍵となります。
ステップ1:前提確認
- 「スターバックス」とは、スターバックスコーヒージャパン株式会社の運営する店舗を指す。ライセンス店なども含めた国内全店舗とする。
- 「年間売上高」は、直近の通期(1年間)の売上とする。
ステップ2:分解
企業の売上を推定する際の基本の分解式は、**「売上 = 客数 × 客単価」**です。しかし、これではまだ大雑把すぎます。もっと解像度を上げて分解しましょう。
(スタバの年間売上高) = (国内総店舗数) × (1店舗あたりの年間売上高)
この分解が最もシンプルで強力です。さらに「1店舗あたりの年間売上高」を分解します。
(1店舗あたりの年間売上高) = (1店舗あたりの1日の売上高) × (年間営業日数)
(1店舗あたりの1日の売上高) = (1日の客数) × (客単価)
さあ、このモデルで進めていきましょう。
ステップ3:仮説設定
- 国内総店舗数:
- これは比較的有名な数字です。ニュースなどで「1500店舗達成」といった報道を見た記憶がある。現在はもっと増えているだろう。→ 仮説:約1,800店舗
- 年間営業日数:
- スタバは年末年始もほぼ休まず営業しているイメージ。→ 仮説:360日
- 客単価:
- 自分がスタバに行く時を想像しよう。ドリップコーヒーのTallサイズが400円弱。フラペチーノなら600~700円。フード(サンドイッチやケーキ)も一緒に頼むと1,000円を超える。
- コーヒーだけの人もいれば、フードやグッズを買う人もいる。平均するとどれくらいか。→ 仮説:750円
- 1日の客数:
- これが一番の難所です。そして、この問題の面白さでもあります。店舗の立地によって客数は大きく異なるはずです。
- こういう時は、**場合分け(セグメンテーション)**が有効です。
- A:都心・駅前型店舗(繁盛店)
- B:郊外・ロードサイド型店舗
- C:商業施設内・その他店舗
- それぞれの店舗タイプの割合と、1日あたりの客数を推定してみましょう。
- 店舗タイプの割合: 都心や駅前が多いイメージだが、最近は郊外のドライブスルーも増えている。感覚的に A:B:C = 40% : 30% : 30% くらいだろうか。→ 仮説:A=4割, B=3割, C=3割
- 各タイプの1日あたり客数:
- A(繁盛店): 常に混雑している。席数は50席くらいか。営業時間は朝7時から夜11時まで16時間。ランチタイムや夕方は満席。1時間に席数と同じくらいの客が入ると仮定すると、50人/時。ピーク時はその2倍、閑散時は半分と考えると、平均して50人/時くらいか。
- 客数 = 50人/時 × 16時間 = 800人/日。テイクアウトも多いので、もう少し多いかもしれない。→ 仮説:1,000人/日
- B(郊外店): 繁盛店ほどではないが、ドライブスルーもあり安定して客が入っている。繁盛店の6割くらいのイメージか。→ 仮説:600人/日
- C(その他): オフィスビル内や公園など、場所による差が大きい。平均すると郊外店と同じくらいか、少し少ないくらいか。→ 仮説:500人/日
- A(繁盛店): 常に混雑している。席数は50席くらいか。営業時間は朝7時から夜11時まで16時間。ランチタイムや夕方は満席。1時間に席数と同じくらいの客が入ると仮定すると、50人/時。ピーク時はその2倍、閑散時は半分と考えると、平均して50人/時くらいか。
- 全店舗の平均客数(加重平均):
- (1,000人 × 0.4) + (600人 × 0.3) + (500人 × 0.3)
- = 400 + 180 + 150 = 730人/日
ステップ4:結合と検証
(1店舗あたりの1日の売上高) = 730人/日 × 750円/人 = 547,500円
(1店舗あたりの年間売上高) = 547,500円/日 × 360日 ≒ 1億9700万円/年
(スタバの年間売上高) = 1,800店舗 × 1億9700万円/店舗 ≒ 3,546億円
答え:日本のスターバックスの年間売上高は、約3,500億円。
検証:
スターバックスコーヒージャパンの実際の2023年度の売上高は、約2,982億円でした。
我々の推定値3,546億円は、30%弱ほど高い結果となりましたが、桁違いの間違いはなく、オーダー(数千億円規模)を捉えることができています。
どこにズレがあったのでしょうか?
- 客単価(750円): 少し高すぎたかもしれません。コーヒー1杯だけの利用者がもっと多い可能性があります。
- 1日の客数(730人): 繁盛店の客数を少し楽観的に見積もりすぎたかもしれません。
- 店舗数(1,800店舗): 実際の2023年時点での店舗数は1,800店を超えているので、ここは良い線でした。
このように、答え合わせをすることで、自分の仮説のどこが甘かったのかを振り返ることができます。この**「振り返り」こそが、推定の精度を上げていくための最も重要な学習プロセス**なのです。
ケーススタディ3(日常編):あなたの家のトイレットペーパーの年間消費量は?
今度はぐっと身近な問題です。これは、自分の行動を客観的に数値化する訓練になります。防災備蓄を考える上でも役立つ、実用的なお題です。
ステップ1:前提確認
- 「年間消費量」は、ロール数で答えるものとする。
ステップ2:分解
(年間消費ロール数) = (1年間の総使用量 [m]) ÷ (1ロールあたりの長さ [m])
(1年間の総使用量) = (家族の人数) × (1人あたりの1日の使用量) × 365日
ステップ3:仮説設定(※これはあなた自身の家庭に合わせて考えてみてください)
ここでは、あるモデルケース(3人家族)で考えてみます。
- 家族の人数: 3人
- 1ロールあたりの長さ: シングルかダブルかで大きく違う。我が家はダブル。→ 仮説:60m/ロール
- 1人あたりの1日の使用量:
- これも分解します。(1回の使用量)×(1日の使用回数)
- 1日の使用回数: 大と小で違う。1日に小4回、大1回の合計5回と仮定。
- 1回の使用量:
- 小の場合:ミシン目で10個分くらい? 1個10cmとして1m。
- 大の場合:その3倍くらい? 3m。
- 1日の合計使用量: (1m × 4回) + (3m × 1回) = 7m/日
- ただし、これは男性の場合。女性はもう少し多く使うかもしれない。家族3人(父、母、子)の平均として、1人あたり少し多めに見積もって 10m/日 としてみよう。
ステップ4:結合と検証
(1年間の総使用量) = 3人 × 10m/人/日 × 365日 = 10,950m/年
(年間消費ロール数) = 10,950m ÷ 60m/ロール ≒ 182.5ロール
答え:3人家族の年間トイレットペーパー消費量は、約183ロール。
検証:
12ロール入りのパックを何回買うか? 183 ÷ 12 ≒ 15.25パック。
1ヶ月に1パック以上買う計算(15.25 ÷ 12 ≒ 1.27)。
感覚として、だいたい月に1パック強くらい買っている気がするので、この数値はかなり妥当な気がします。このように、日常生活に根差したフェルミ推定は、自分の感覚と照らし合わせることで、すぐに検証できるのが面白いところです。
これらのケーススタディからわかるように、フェルミ推定は万能のツールです。社会、ビジネス、日常、どんな対象であっても、論理的に分解し、仮説を立てることで、その規模感を捉えることが可能になるのです。
第4章:フェルミ推定の「その先」へ – 思考力を鍛え、未来を切り拓く
ここまで、フェルミ推定の具体的な手法と実践例を見てきました。しかし、フェルミ推定の本当の価値は、単に「数値を当てる」ことだけにあるのではありません。その価値は、この思考法を実践する過程で得られる、より普遍的な能力にあります。
フェルミ推定は「正解」を当てるゲームではない
多くの人が誤解しがちなのが、「フェルミ推定は、いかに正解に近い数値を出すかを競うゲームだ」という考えです。もちろん、結果の精度が高いに越したことはありません。しかし、それ以上に重要なのは、何度も強調してきたように**「答えに至るまでの論理的なプロセス」**です。
なぜ、Googleやマッキンゼーといった世界のトップ企業が、採用面接でフェルミ推定を課すのでしょうか? 彼らは、応募者の暗記力や計算能力を測りたいのではありません。彼らが見たいのは、以下のような能力です。
- 問題解決能力: 未知の課題に対して、どのように立ち向かい、構造化し、解決への道筋を立てるか。
- 論理的思考力: 前提条件を置き、要素を分解し、一貫した論理で結論まで導けるか。
- 仮説思考力: 限られた情報の中から、妥当性の高い仮説を立てる力。
- 思考の柔軟性と創造性: 行き詰まった時に、別の切り口やアプローチを試せるか。
- コミュニケーション能力: 自分の思考プロセスを、相手にわかりやすく説明できるか。
- 思考の体力(ストレス耐性): 答えのないプレッシャーのかかる状況で、冷静に考え続けられるか。
これらの能力は、どんな業界、どんな職種においても必要とされる、極めて重要なポータブルスキルです。フェルミ推定は、これらの能力を総合的に測り、そして鍛えるための、絶好の試金石であり、トレーニングジムなのです。
フェルミ推定を鍛える日常のトレーニング方法
この強力な思考法は、日々のちょっとした意識で鍛えることができます。
- 「なぜ?」「どれくらい?」を口癖にする:
- 街を歩いていて、行列のできているラーメン屋を見たら、「この店の1日の売上はどれくらいだろう?」と考えてみる。
- ニュースで「今年の訪日外国人数が過去最高」と聞いたら、「一人当たりの消費額はいくらで、経済効果は総額でどれくらいになるのだろう?」と計算してみる。
- 日常のあらゆる事象を、ただ受け流すのではなく、定量的に捉える癖をつけることが第一歩です。
- 分解して考える習慣をつける:
- 何か大きな目標を立てた時(例:「資格試験に合格する」)、それを達成するために必要な要素に分解してみる。「総勉強時間」「1日あたりの勉強時間」「必要な参考書の数」「過去問を解く回数」など、具体的な数値目標に落とし込むのです。これは、フェルミ推定の思考プロセスそのものです。
- 他人とディスカッションする:
- 一人で考えるだけでなく、友人や同僚と同じお題でフェルミ推定をやってみましょう。自分では思いつかなかった分解の仕方や、仮説の立て方に出会うことができます。他人の思考プロセスを知ることは、自分の思考の幅を広げる最良の方法です。
批判的思考とフェルミ推定
フェルミ推定を実践する効用は、問題解決能力の向上だけにとどまりません。それは、現代社会を生きる上で不可欠な**「批判的思考(クリティカル・シンキング)」**を養うことにも繋がります。
私たちは日々、メディアやSNSを通じて、大量の「数字」に晒されています。「顧客満足度98%!」「売上300%アップ!」。これらの数字を見て、私たちは「すごいな」と無条件に受け入れてしまいがちです。
しかし、フェルミ推定の訓練を積んだ脳は、そこで思考を止めません。
- 「その顧客満足度の調査対象は誰で、サンプル数はいくつなのか?」
- 「売上300%アップというのは、比較対象の元の売上が極端に低かっただけではないか?」
このように、示された数字の裏側にある**「前提」や「定義」「計算プロセス」**にまで思いを馳せ、その妥当性を吟味する姿勢が自然と身につきます。これは、フェイクニュースやプロパガンダ、意図的に操作されたデータに惑わされないための、強力な知的防衛術となるのです。
最新の研究から見る「推定」の価値 – AI時代に人間ができること
認知科学の分野では、人間が物事を判断する際の思考のショートカットである「ヒューリスティクス」と、それがもたらす体系的な誤りである「認知バイアス」について、多くの研究がなされてきました(ダニエル・カーネマンの研究が有名です)。
例えば、すぐに思いつく事例に判断を引っ張られる「利用可能性ヒューリスティック」や、最初に与えられた情報が判断の基準になってしまう「アンカリング効果」などが知られています。
フェルミ推定のプロセスは、まさにこれらの認知バイアスとの闘いでもあります。
自分の直感(ヒューリスティクス)だけに頼るのではなく、問題を客観的に分解し、複数の視点から仮説を検証(Sanity Check)する。この手続きは、私たちが陥りがちな思考の罠を意識的に回避し、より合理的な結論に到達するための訓練と言えるのです。
そして、AI(人工知能)が急速に進化する現代において、フェルミ推定の価値はむしろ高まっているとさえ言えます。
「日本のマンホールの数は?」とAIに尋ねれば、おそらく瞬時に、かなり正確な(あるいは公式の)数値を提示してくれるでしょう。しかし、ビジネスの現場で直面する問いは、そう単純ではありません。
「2030年の、昆虫食の国内市場規模は?」
この問いに、過去のデータを持たないAIは答えることができません。このような未来の、まだ存在しない市場の規模を「推定」するためには、フェルミ推定の思考プロセスが不可欠です。市場に参入するであろうターゲット層は誰か(人口)、そのうちの何割が昆虫食を試すか(試食率)、どれくらいの頻度で、いくら購入するか(購入頻度、客単価)。これらを論理的に組み立て、事業の可能性を探る。これは、AIにはできず、人間にしかできない高度な知的作業です。
AIが「答え」を出すのが得意だとしても、そのAIに何を問うべきかという「問い」を立てる力、そしてAIが弾き出した答えの妥当性を検証する力は、ますます人間に求められます。フェルミ推定は、まさにこの「問いを立てる力」と「答えを検証する力」を鍛え上げるための、最高の知的トレーニングなのです。
第5章:おわりに – 「わからない」から「面白い」へ
長い旅路、お疲れ様でした。私たちは、物理学者フェルミの逸話から始まり、フェルミ推定の具体的な4つのステップ、様々なケーススタディ、そしてその現代的な意義までを探求してきました。
この記事を読み終えた今、あなたはもう、かつてのあなたではありません。「わからない」という壁の前で立ち尽くすのではなく、その壁をどうにかして乗り越えられないか、その高さを測れないかと考える「思考のコンパス」を手に入れたはずです。
改めて強調したいのは、フェルミ推定は一部の天才のためだけの特殊能力ではないということです。それは、自転車の乗り方や九九の暗唱と同じように、**誰もが訓練によって身につけることができる「思考のOS(オペレーティングシステム)」**です。
この新しいOSをインストールすることで、あなたの見る世界は、きっと解像度をぐっと増すはずです。
いつも通る通勤路の風景が、ビジネスチャンスの宝庫に見えるかもしれません。
退屈なニュース記事の数字の裏に、社会の大きなダイナミズムを感じるかもしれません。
漠然とした将来への不安が、具体的な行動計画に変わるかもしれません。
何より、これまで「わからない」「自分には関係ない」とシャッターを下ろしていた問題に対して、「待てよ、これは分解すれば考えられるかもしれない」と、知的好奇心を持って向き合えるようになります。世界は、解き明かすべき無数の謎に満ちた、エキサイティングな場所に変わるのです。
さあ、今日から始めてみましょう。
まずは、あなたの目の前にあるものからで構いません。
「このカフェ、1日のコーヒー豆の使用量はどれくらいだろう?」
「今読んでいるこの本、日本で累計何冊売れているのだろう?」
分解し、仮説を立て、計算し、検証する。
そのプロセスは、最初はぎこちなく、時間がかかるかもしれません。しかし、繰り返すうちに、あなたの脳の回路は確実に鍛えられ、より速く、より正確に、物事の本質を捉えられるようになります。
「わからない」は、思考停止の合図ではありません。
それは、「ここからが面白くなる」という、知的な冒険の始まりの合図なのです。
あなたの明日が、昨日よりも少しだけ、面白くなることを願って。


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