第1章: 静かに始まる体の反乱 – ALSとは何か?
私たちの体は、精巧なオーケストラのようなものです。脳という指揮者がタクトを振ると、神経という名のメッセンジャーがその指令を各パート、つまり筋肉へと瞬時に伝えます。指を動かす、言葉を紡ぐ、微笑む。その一つ一つの動作が、無数の神経と筋肉の完璧な連携によって成り立っています。
では、もし、このメッセンジャーが少しずつ役割を果たせなくなったらどうなるでしょうか。指揮者の指令は明確なのに、演奏者である筋肉に届かない。最初は些細な音のズレかもしれません。「最近、指がもつれるな」「呂律が回りにくい時がある」。しかし、そのズレは徐々に広がり、やがてオーケストラ全体が沈黙に向かっていく。
これが、筋萎縮性側索硬化症(きんいしゅくせいそくさくこうかしょう)、通称「ALS」と呼ばれる病気の本質です。
ALSは、体を動かすために必要な神経細胞、「運動ニューロン」が選択的に侵され、壊れていく病気です。運動ニューロンには、脳からの指令を脊髄に伝える「上位運動ニューロン」と、脊髄からの指令を筋肉に伝える「下位運動ニューロン」の二種類があります。ALSは、その両方が進行性に失われていくことで、脳の指令が筋肉に届かなくなり、結果として筋肉が痩せ(筋萎縮)、力がなくなっていくのです。
この病気の最も残酷な側面は、多くの場合、五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)や知能、記憶、意識は最後まで正常に保たれることです。体という乗り物が動かなくなっていくのを、クリアな意識のまま見つめ続けなければならない。物理学者のスティーヴン・ホーキング博士が、宇宙の謎を解き明かす明晰な頭脳を持ちながら、車椅子の上でまぶたの動きだけでコミュニケーションをとっていた姿は、ALSという病気の特性を雄弁に物語っています。
日本では、特定疾患(いわゆる難病)に指定されており、2022年度末の時点で約10,700人の患者さんがこの病と共に生きています。発症年齢は50代から70代に多く、男性が女性よりやや多い傾向にありますが、より若い世代や高齢での発症も稀ではありません。決して他人事ではない、誰にでも起こりうる病気なのです。
この章の冒頭で、体をオーケストラに例えました。ALSという病は、その演奏者である筋肉を沈黙させていきます。しかし、指揮者である「心」や「意識」は、最後までタクトを振り続けます。そのタクトが何を奏で、どのような物語を紡いでいくのか。次の章からは、実際にこの病と向き合った人々の人生を辿りながら、その深淵に迫っていきましょう。
第2章: ある日、突然に – 実際のケースから学ぶALSの多様な顔
ALSの症状の現れ方や進行のスピードは、一人ひとり全く異なります。それは、体のどの部分の運動ニューロンから障害され始めるかによって決まるからです。ここでは、いくつかの架空の、しかし現実に起こりうるケースを通して、ALSがどのように人生に現れるのかを見ていきます。
ケース1: 営業マンAさん(58歳) – 「上肢型」の始まり
Aさんは、都内の中堅企業で働くベテラン営業マンでした。誰よりも健康に自信があり、週末のゴルフが生きがいの活動的な男性です。異変は、本当に些細なことから始まりました。
「最近、パソコンのキーボードが打ちにくいんだよな。年のせいかね」。
最初は、同僚とのそんな笑い話で済ませていました。しかし、次第にペットボトルのキャップが開けにくくなり、大好きだったゴルフではクラブをしっかり握れなくなりました。そしてある朝、ネクタイを結ぼうとした時、指が思うように動かず、鏡の前で立ち尽くしてしまったのです。
心配した妻に促され、近所の整形外科を受診しました。「頸椎症(けいついしょう)かもしれない」と言われ、しばらくリハビリに通いましたが、症状は改善するどころか、じわじわと悪化していきます。話し声がかすれ、呂律が回りにくくなってきたことで、Aさんは「これはただ事ではない」と直感しました。
紹介された大学病院の神経内科で、数々の精密検査を受けた後、医師から告げられた病名が「筋萎縮性側索硬化症(ALS)」でした。
「頭の中はクリアなまま、体が動かなくなっていく病気です」。
医師の言葉が、現実味のないまま頭に響きます。働き盛りの自分が、なぜ。これから娘の結婚式もあるのに。住宅ローンもまだ残っている。頭の中を絶望が駆け巡りました。
診断後のAさんの生活は一変しました。まず、営業の仕事は続けられなくなり、内勤への異動を余儀なくされました。食事の際には箸が使えなくなり、スプーンやフォークに。やがてそれも難しくなり、妻が食事の介助をするようになりました。言葉を発するのが困難になると、コミュニケーションはホワイトボードを使った筆談に変わりました。
しかし、Aさんは絶望の中にも光を見出そうとしました。それは、テクノロジーの力です。体が動かなくなっても、視線は最後まで残ることが多いと知ったAさんは、早期から「視線入力装置」のトレーニングを始めました。これは、目の動きでパソコンのカーソルを操作し、文字盤から文章を作成して音声で読み上げることができる装置です。
彼は、この装置を使って家族と会話をし、友人とメールを交わし、さらには自身の闘病体験をブログに綴り始めました。彼のブログは、同じ病に苦しむ人々やその家族にとって、大きな励ましとなっていきました。体は動かなくても、彼の心は言葉となって世界と繋がり続けたのです。
ケース2: 元ダンサーBさん(42歳) – 「下肢型」の絶望と再生
Bさんは、若い頃プロのダンサーとして活躍し、引退後はダンス教室を主宰していました。しなやかで力強い自分の体を誰よりも愛していました。
彼女の異変は、足から始まりました。レッスンの最中、何もないところで頻繁につまずくようになったのです。
「最近、足に力が入らないのよね。疲れているのかしら」。
最初は筋肉の疲れだと思っていましたが、階段を上るのが日に日に辛くなり、片足で立つことができなくなりました。やがて、歩行には杖が欠かせなくなり、大好きだったダンスの指導も諦めざるを得ませんでした。
Aさんと同じように、いくつかの病院を巡った末にALSと診断された時、彼女は深い絶望に突き落とされました。人生の全てだった「動く体」を失うこと。それは、彼女にとって自己の喪失そのものでした。
診断から2年後、Bさんの移動は完全に車椅子になりました。腕の力も徐々に弱まり、身の回りのほとんどのことに介助が必要になりました。かつてのエネルギッシュな面影はなく、部屋に閉じこもりがちになりました。
そんな彼女を変えたのは、一人の訪問看護師との出会いでした。その看護師は、Bさんが元ダンサーだったことを知り、こう言いました。
「Bさん、体は動かなくても、表現することはできるんですよ」。
看護師は、Bさんのために、詩や物語を朗読し始めました。そしてある日、Bさんに問いかけました。「この物語の主人公は、今どんな表情をしていると思いますか?」。Bさんは、動かない顔の筋肉を必死に動かそうとし、目で、眉で、かすかな口元の動きで、その感情を表現しようとしました。
それは、Bさんにとって新しい「ダンス」の始まりでした。言葉を失い、体を失っても、残された機能で感情を表現することはできる。彼女は、地域の子供たちに、車椅子の上から物語の読み聞かせを始める決意をしました。介助者の助けを借りてページをめくり、視線や表情、そしてかろうじて出せる声のトーンで、物語の世界を豊かに表現したのです。子供たちは、Bさんの周りに集まり、彼女の「心のダンス」に魅了されました。
Bさんは、体を動かすダンスは失いましたが、心を伝える表現という、より本質的な喜びを見つけ出したのです。
ケース3: 伝説の野球選手と天才物理学者
ALSは、歴史に名を残す著名な人物の人生にも影響を与えてきました。
一人は、アメリカのメジャーリーグで「鉄人」と呼ばれた野球選手、ルー・ゲーリッグです。2130試合連続出場の記録を持つ彼は、1939年に体力の衰えからALSと診断され、引退を余儀なくされました。引退スピーチで彼が語った「今日、私は自分を地上で最も幸せな男だと感じています」という言葉は、病に屈しない人間の尊厳の象徴として、今なお語り継がれています。この出来事から、ALSは「ルー・ゲーリッグ病」とも呼ばれるようになりました。
もう一人は、冒頭でも触れたスティーヴン・ホーキング博士です。21歳という若さでALSを発症し、「余命2年」と宣告されながらも、そこから50年以上にわたって宇宙物理学の最前線で活躍し続けました。彼は、最新のテクノロジーを駆使してコミュニケーションをとり、ユーモアを忘れず、精力的に研究と講演を続けました。彼の存在そのものが、ALS患者だけでなく、世界中の人々に「人間の可能性は無限である」という強力なメッセージを送り続けたのです。
これらのケースが示すように、ALSは一人ひとり異なる物語を描き出します。しかし、そこには共通するテーマがあります。それは、失われた機能ではなく、残された機能に目を向け、いかにして自分らしく生き続けるかという、人間の創造性と不屈の精神の物語です。
第3章: なぜ私が? – 複雑なパズル、ALSの原因を探る
「なぜ、私がこの病気にならなければならなかったのか」。これは、ALSと診断された患者さんとその家族が、誰もが抱く根源的な問いです。しかし、現代の医学をもってしても、この問いに対する明確な答えはまだ見つかっていません。ALSの原因解明は、多くの研究者が挑む、非常に複雑なパズルなのです。
ALSは、発症の原因によって大きく二つに分類されます。
1. 孤発性(こはつせい)ALS (Sporadic ALS)
全ALS患者の約90%を占めるのが、この孤発性ALSです。これは、血縁者の中に同じ病気の人がおらず、明らかな遺伝的背景なしに、ある個人に「孤立して発症する」ケースを指します。つまり、ほとんどのALSは、遺伝とは直接関係なく発症するのです。
では、孤発性ALSの原因は何なのでしょうか。現在、単一の原因ではなく、複数の要因が複雑に絡み合って発症するという「多因子疾患」であるという考え方が主流です。その仮説として、いくつかのメカニズムが研究されています。
- グルタミン酸過剰毒性説: グルタミン酸は、神経細胞間で情報を伝える重要な神経伝達物質です。しかし、これが過剰に存在すると、逆に神経細胞を興奮させすぎてしまい、細胞を傷つけ、死に至らしめてしまうことがあります。これを「興奮毒性」と呼びます。ALS患者さんの一部では、運動ニューロンの周りでこのグルタミン酸を適切に除去する機能が低下している可能性が指摘されています。
- 酸化ストレス説: 私たちが呼吸してエネルギーを作る過程で、体内には「活性酸素」という物質が作られます。これは少量であれば問題ありませんが、過剰になると細胞を錆びつかせ、傷つけてしまいます。これが「酸化ストレス」です。運動ニューロンは特にエネルギー消費が激しい細胞であるため、この酸化ストレスのダメージを受けやすいのではないかと考えられています。
- タンパク質の異常凝集説: 私たちの細胞内では、様々なタンパク質が正しい形に折りたたまれることで正常に機能しています。しかし、何らかの原因で異常な形に折りたたまれたタンパク質が作られ、それらがゴミのように細胞内に蓄積(凝集)してしまうことがあります。ALS患者さんの運動ニューロンでは、「TDP-43」や「FUS」といった特定のタンパク質が異常に凝集していることが発見されており、これが神経細胞死の引き金になっているのではないかという説が有力視されています。
- その他: 上記以外にも、神経の炎症反応、細胞内のエネルギー工場であるミトコンドリアの機能不全、神経の成長を支える因子の欠乏など、様々な要因が関わっている可能性が研究されています。
これらの要因が、加齢という時間経過や、何らかの環境要因(まだ特定には至っていません)と組み合わさることで、運動ニューロンが少しずつ変性していくのではないか、というのが現在の理解です。
2. 家族性(かぞくせい)ALS (Familial ALS)
全ALS患者の約10%は、血縁者にもALS患者がいる「家族性ALS」です。この場合、特定の遺伝子の変異が、病気の発症に直接関わっていることが分かっています。
これまでに、40種類以上の原因遺伝子が同定されています。その中でも代表的なものが、以下の遺伝子です。
- SOD1遺伝子: 1993年に初めて発見されたALSの原因遺伝子です。これは、前述した酸化ストレスから細胞を守る「スーパーオキシドジスムターゼ1」という酵素を作る遺伝子です。この遺伝子に変異が起こると、酵素の機能が失われるだけでなく、異常なタンパク質が作られて神経細胞に毒性を持つようになると考えられています。家族性ALSの約20%、孤発性ALSの約1〜2%でこの遺伝子の変異が見つかります。
- C9orf72遺伝子: 欧米の家族性ALSでは最も頻度の高い原因遺伝子で、約40%を占めます。日本では比較的少ないですが、それでも重要な原因の一つです。この遺伝子では、特定の塩基配列(GGGGCC)が異常に繰り返されることで、神経細胞に有害な物質が作られたり、必要なタンパク質が作られなくなったりすることが原因とされています。
- TDP-43遺伝子、FUS遺伝子: これらは、孤発性ALSでも異常な凝集が見られるタンパク質の設計図となる遺伝子です。これらの遺伝子自体に変異があると、タンパク質がより凝集しやすくなり、病気を引き起こすと考えられています。
遺伝子の研究は、ALSという病気の謎を解くための重要な鍵です。家族性ALSの原因遺伝子を調べることで、孤発性ALSにも共通する病気のメカニズムが明らかになり、それが新しい治療薬の開発に繋がっていくのです。
「なぜ私が?」という問いに、まだ私たちは完璧な答えを返すことはできません。しかし、世界中の研究者たちのたゆまぬ努力によって、その複雑なパズルのピースは一つ、また一つと埋められつつあります。その先に、原因を根本から断ち切る治療法が生まれる日も、そう遠くないのかもしれません。
第4章: 闇の中の光 – 診断と治療、そして支えの現在地
ALSという診断は、患者さんと家族にとって、暗闇に突き落とされるような宣告です。しかし、その暗闇の中にも、確かに光は存在します。それは、病気の進行を少しでも穏やかにするための治療法であり、QOL(生活の質)を維持するための多職種の専門家による手厚いサポート体制です。
診断への長い道のり
ALSの診断は、決して簡単ではありません。「これがあればALSだ」という決定的な検査が存在しないためです。診断は、他の似たような症状を示す病気の可能性を一つずつ消していく、「除外診断」というプロセスを辿ります。
患者さんが最初に行うのは、詳細な問診と神経学的診察です。医師は、筋力低下や筋萎縮の分布、腱反射の状態などを丁寧に調べ、上位・下位運動ニューロンの両方が障害されている兆候を探します。
その後、以下のような様々な検査を組み合わせて、総合的に判断します。
- 針筋電図検査: 筋肉に細い針を刺し、筋肉の電気的な活動を調べる検査です。運動ニューロンが障害されていると、特徴的な波形が観察されます。これは診断において非常に重要な検査です。
- 神経伝導速度検査: 神経に電気刺激を与え、その伝わる速さを測定します。これにより、運動ニューロンではなく、末梢神経そのものに問題がある他の病気(例:ギラン・バレー症候群)と区別します。
- 血液検査: 他の病気(甲状腺機能異常、ビタミン欠乏など)を除外するために行います。
- MRI(磁気共鳴画像)検査: 脳や脊髄の画像を撮影し、腫瘍や椎間板ヘルニア、多発性硬化症など、似た症状を引き起こす他の病気がないかを確認します。
これらの検査を重ね、他のあらゆる可能性が否定された時に、ようやくALSという臨床診断が下されます。そのため、最初の症状に気づいてから確定診断がつくまで、1年以上かかることも珍しくありません。この診断がつかない期間は、患者さんにとって非常に不安で辛い時間となります。
現在の治療法:進行を遅らせ、症状と向き合う
残念ながら、現時点でALSを完治させる治療法は確立されていません。しかし、病気の進行を遅らせることが科学的に証明されている薬がいくつか存在します。
- リルゾール(商品名:リルテック): 前述した「グルタミン酸過剰毒性」を抑制する働きを持つ飲み薬です。世界で最初に承認されたALS治療薬であり、生存期間を数ヶ月程度延長する効果が示されています。病気の進行を止めるものではありませんが、ALS治療の基本となる薬です。
- エダラボン(商品名:ラジカット): 「酸化ストレス」を軽減する作用を持つ点滴薬です。特に、日常生活動作(ADL)の機能低下を抑制する効果が報告されており、比較的早期の患者さんに使用されます。
- その他: 近年、特定の遺伝子変異を持つ家族性ALSに対して、その原因に直接アプローチする新しいタイプの薬(核酸医薬など)が登場し、治療に大きな変革をもたらしつつあります(詳細は次章で述べます)。
薬物療法と並行して、あるいはそれ以上に重要なのが、症状を和らげ、QOLを維持するための**「対症療法」と「支持療法」**です。
- 呼吸ケア: ALSが進行すると、呼吸に関わる筋肉(横隔膜や肋間筋)も弱っていきます。最初は息切れから始まり、進行すると自力での呼吸が困難になります(呼吸不全)。これに対しては、まず「非侵襲的陽圧換気(NPPV)」という、鼻や口にマスクをつけて空気を送り込む装置を使用します。これにより、夜間の睡眠の質が改善し、日中の活動性が向上します。さらに進行し、NPPVでも不十分になった場合は、「気管切開下陽圧換気(TPPV)」という、喉に穴を開けて直接気管にチューブを入れ、人工呼吸器を装着する方法を選択することになります。人工呼吸器の装着は、生命を維持するための非常に重要な選択であり、患者さん本人と家族が、医療チームと十分に話し合い、意思決定を行う必要があります。
- 栄養管理: 嚥下(えんげ)、つまり飲み込みに関わる筋肉が弱ると、食事中にむせやすくなり、誤嚥性肺炎のリスクが高まります。また、十分に栄養が摂れなくなり、体重が減少してしまいます。これに対しては、食事の形態を工夫したり(刻み食、ミキサー食など)、言語聴覚士による嚥下リハビリを行ったりします。それでも経口摂取が難しくなった場合は、「胃ろう(PEG)」という、お腹に小さな穴を開けて直接胃に栄養を送る方法が選択されます。胃ろうを造設することで、安全かつ確実に栄養と水分を補給でき、QOLの維持に大きく貢献します。
- リハビリテーション: 理学療法士(PT)や作業療法士(OT)が、関節が固くなる(拘縮)のを防ぐためのストレッチや、残された筋力を最大限に活かすための動作の工夫、福祉用具(杖、車椅子、介護ベッドなど)の選定を行います。リハビリは筋力を回復させるものではありませんが、生活の質を保つ上で不可欠です。
- コミュニケーション支援: 話すことが難しくなった(構音障害)患者さんのために、言語聴覚士(ST)が、透明な文字盤を指さして会話する方法や、前述した視線入力装置などのコミュニケーション機器の導入を支援します。意思を伝えられることは、人間の尊厳の根幹に関わる重要な要素です。
これらのケアは、一人の医師だけで行えるものではありません。医師、看護師、理学療法士、作業療法士、言語聴覚士、管理栄養士、ソーシャルワーカー、ケアマネージャーといった多くの専門家がチームを組み、患者さんと家族を総合的に支えていきます。この「多職種連携」こそが、ALS治療の要なのです。
暗闇の中でも、これらの光を頼りに、一歩一歩進んでいく。それが、ALSと共に生きるということの現在地なのです。
第5章: 希望は、絶えない – 未来を拓く最先端研究
ALSという手ごわい敵に対して、人類は決して手をこまねいているわけではありません。世界中の研究室で、科学者たちは日夜、この病気の謎を解き明かし、新たな治療法を開発するために奮闘しています。そして近年、その努力が次々と実を結び始めており、かつてないほどの希望の光が差し込んできています。
1. 遺伝子を狙い撃つ「核酸医薬」の衝撃
ALS治療の分野で、今最も大きな注目を集めているのが「核酸医薬」です。これは、病気の原因となる遺伝子から、異常なタンパク質が作られるプロセスを根本からブロックしようという、非常に画期的な治療法です。
特に、家族性ALSの原因遺伝子の一つである「SOD1遺伝子」の変異を持つ患者さんに対して開発された**トフェルセン(商品名:カリョーディ)**は、その象徴的な存在です。トフェルセンは、「アンチセンス核酸」と呼ばれる短い遺伝子の断片で、脊髄の周りの液体(髄液)に直接投与されます。すると、この薬がSOD1遺伝子のメッセンジャーRNA(mRNA)という設計図に結合し、異常なSOD1タンパク質が作られるのを防ぎます。
臨床試験では、トフェルセンを投与された患者さんにおいて、病気の進行が抑制され、運動機能や呼吸機能の悪化が緩やかになるという、これまでの治療薬では見られなかった顕著な効果が示されました。これは、ALSの病気のメカニズムに直接介入し、進行を止めることができる可能性を世界で初めて示したものであり、歴史的なブレークスルーと言えます。2023年に米国で、2024年には日本でも承認され、SOD1-ALSの患者さんにとって大きな希望となっています。
この成功は、SOD1だけでなく、「C9orf72」や「TDP-43」など、他の原因遺伝子に対する核酸医薬の開発を強力に後押ししています。遺伝子レベルで病気を叩くという時代が、ついに到来したのです。
2. iPS細胞が拓く創薬と病態解明の新時代
ノーベル賞を受賞した山中伸弥教授が開発した「iPS細胞(人工多能性幹細胞)」もまた、ALS研究に革命をもたらしています。
iPS細胞技術の最大の利点は、ALS患者さん自身の皮膚や血液の細胞から、病気の原因となっている「運動ニューロン」を研究室で大量に作り出せることです。
- 病態の再現と解明: これまで、生きた人間の運動ニューロンを直接調べることは不可能でした。しかし、患者さん由来のiPS細胞から作った運動ニューロンをシャーレの中で観察することで、「なぜ神経細胞が死んでしまうのか」という病気の根本的なメカニズムを、目の前で詳細に調べることができるようになりました。
- 創薬スクリーニング: さらに、この病気の運動ニューロンを使って、何千、何万という薬の候補物質を試す「創薬スクリーニング」が可能になります。どの薬が神経細胞死を食い止める効果があるかを効率的にテストできるため、新しい治療薬の開発スピードが飛躍的に向上すると期待されています。実際に、京都大学iPS細胞研究所(CiRA)などを中心に、既存薬の中からALSに効果のある薬を見つけ出す「ドラッグ・リパーパッショニング」が進められており、ボスチニブという白血病の薬などが臨床試験の段階に入っています。
- 再生医療への挑戦: 将来的には、健康なiPS細胞から作った運動ニューロンを患者さんに移植し、失われた神経機能を補う「再生医療」も期待されています。これはまだ、移植した細胞の生着や安全性など、多くの課題を乗り越える必要がありますが、夢の治療法に向けた研究が着実に進められています。
3. テクノロジーとの融合がもたらすQOLの向上
治療法の開発と並行して、患者さんのQOLを劇的に向上させるテクノロジーの進化も目覚ましいものがあります。
- コミュニケーションツールの進化: かつては高価で操作も難しかった「視線入力装置」は、より安価で高性能になり、多くの患者さんが利用できるようになりました。これにより、SNSで発信したり、仕事を続けたりと、社会との繋がりを維持することが可能になっています。
- BCI/BMI(ブレイン・コンピュータ・インタフェース): さらにその先を見据えた研究として、脳波や脳の活動を直接読み取ってコンピューターや機械を操作する「BCI/BMI」技術の開発が進んでいます。これが実用化されれば、まぶたの動きさえ失った完全な閉じ込め状態(Total Locked-in State)の患者さんでも、思考だけで意思を伝達できるようになるかもしれません。
これらの研究開発は、一つ一つが希望の光です。ALSはもはや、「何もできない不治の病」ではなく、「克服に挑むべき病気」へと変わりつつあります。遺伝子治療、iPS細胞、そしてテクノロジー。これらの力が結集した時、ALSという長いトンネルの先に出口が見えてくるはずです。その日は、私たちが思うよりも、ずっと近くまで来ているのかもしれません。
結論: 私たちにできること – 理解の輪を広げ、希望を支える
私たちは、ALSという病気の正体から、その過酷な現実と向き合う人々の物語、そして未来を照らす希望の光までを見てきました。
この記事を閉じる前に、最後に考えてみたいことがあります。それは、この病気について知った「私たち」に、何ができるのか、ということです。
まず最も大切なことは、**「正しく理解し、関心を持ち続けること」**です。ALSは、体が動かなくなっても、心や意識は鮮明なままであるということを知るだけでも、患者さんへの接し方は大きく変わるはずです。彼らは、同情されるべき無力な存在ではなく、私たちと同じように感じ、考える、一人の人間です。街で視線入力装置を使う人や、人工呼吸器をつけた人を見かけた時、奇異の目で見るのではなく、そこに尊厳を持った人生があることを想像してみてください。その想像力こそが、共生社会の第一歩です。
次に、**「支援の輪に参加すること」**です。日本ALS協会をはじめ、多くの団体が患者・家族の支援や、研究開発の推進のために活動しています。募金への協力、イベントへの参加、あるいはボランティアとして関わるなど、形は様々です。かつて世界中を席巻した「アイス・バケツ・チャレンジ」は、ALSという病気の認知度を飛躍的に高め、研究資金を集める大きな力となりました。あのようなムーブメントが示すように、一人ひとりの小さな行動が、大きなうねりを作ることがあります。
そして、**「希望を支えること」**です。この記事で紹介したように、ALSの研究は日進月歩で進んでいます。新しい治療薬が次々と生まれ、テクノロジーが不可能を可能にしつつあります。この希望の炎を燃やし続けるためには、研究開発を社会全体で支援していく必要があります。国の医療政策に関心を持つことも、間接的な支援に繋がります。
ALSは、私たちに「生きること」の根源的な意味を問いかけます。動けること、話せること、食べられること。当たり前だと思っていた日常が、いかに奇跡的で、かけがえのないものであるか。そして、たとえ多くを失ったとしても、人間の尊厳や希望は、決して失われることはないということ。
動かなくなる体と、決して止まらない心。
その狭間で懸命に生きる人々がいることを、どうか忘れないでください。あなたの理解と関心が、誰かの今日を、そして未来を支える力になるのです。


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