導入:私たちは「間違った地図」で航海していないか?
あなたは、自分の人生の「成功」を何で測りますか?
多くの人は、より良い仕事、より高い収入、より広い家、より多くの消費…といった「上へ、上へ」と向かうイメージを思い浮かべるかもしれません。
私たち現代人は、国レベルでも同じ「地図」を信じてきました。それが「GDP(国内総生産)」です。
経済ニュースを(開けば「今年のGDP成長率は…」という言葉が飛び交い、私たちは無意識のうちに「GDPが増え続けること=国が豊かになること=良いこと」と刷り込まれてきました。
しかし、本当にそうでしょうか?
今、私たちの目の前にある現実はどうでしょう。
気候変動は「危機」を超え「破滅」レベルに達し、毎年のように異常気象が世界を襲っています。地球の生態系は悲鳴を上げ、多くの生物種が絶滅の淵に立たされています。
その一方で、世界で最も裕福な一握りの人々が富を独占し、何億人もの人々が日々の食料や清潔な水、医療へのアクセスさえ持てずに苦しんでいます。
「GDPは成長している」のに、なぜ地球は壊れ、人々の格差は広がり続けるのか?
もしかしたら、私たちが使ってきた「GDP」という地図自体が、間違っていたのかもしれません。私たちが行くべき「目的地」を見誤らせる、古い地図だったのかもしれません。
もし、経済の目的が「無限の成長」ではなく、別の場所にあるとしたら?
この根本的な問いに対し、一つの鮮やかで、しかし非常に強力な答えを示した人物がいます。英国オックスフォード大学の経済学者、ケイト・ラワース(Kate Raworth)氏です。
彼女が提唱した「ドーナツ経済学(Doughnut Economics)」。
それは、経済成長という名の「呪い」から私たちを解き放ち、人類が21世紀に真に「繁栄」するための、全く新しい羅針盤です。
この記事では、なぜ今、この「ドーナツ」が世界中の政府や都市、企業、市民から熱狂的な注目を集めているのか、その全貌を解き明かしていきます。アムステルダム、コスタリカ、ブリュッセル…世界はすでに、この新しい地図を手に航海を始めています。
長い旅になりますが、読み終えた時、あなたの「経済」を見る目は、間違いなく変わっているはずです。
第1章:なぜ、私たちは「成長」に取り憑かれたのか? GDPという「怪物」の誕生
ドーナツの話をする前に、私たちがなぜ「ドーナツの外」に飛び出してしまったのか、その歴史を少しだけ振り返る必要があります。
私たちが今、当たり前に使っている「GDP」という指標。これが経済の「王様」になったのは、実はそれほど昔のことではありません。
その起源は、1930年代の世界大恐慌と、その後の第二次世界大戦にあります。
当時のアメリカ政府は、未曾有の不況から抜け出し、さらに戦争を遂行するために、「自国の経済がどれだけのモノやサービスを生産できるか」を正確に把握する必要に迫られました。
そこで経済学者サイモン・クズネッツらが開発したのが、GDP(当時はGNP)の原型です。
当初、これは「国の生産力」を測るための、あくまで一つの「道具」でした。開発者であるクズネッツ自身も、「国民の幸福を、GDPのような単一の指標で測ることなどできない」と強く警告していたほどです。
しかし、戦後、世界が復興と成長の時代に入ると、この警告は忘れ去られます。
GDPは「経済成長」という分かりやすい「物語」の主人公となり、政治家は「GDPを何%成長させる」と競い合い、企業は利益(=GDPの構成要素)を最大化することに邁進しました。
GDPは、いつしか「道具」から「目的」へとすり替わってしまったのです。
問題は、このGDPという指標が、あまりにも「鈍感」であることでした。
- GDPは「何を」生み出しているかを問わない。例えば、軍事費が増えて武器がたくさん作られてもGDPは増えます。大気汚染や水質汚染を浄化するための費用もGDPを増やします。病人が増えて医療費がかさめば、それもGDPの成長にカウントされます。
- GDPは「失われたもの」を計算しない。森林を伐採して木材を売ればGDPは増えますが、その森林が持っていた水源涵養や生物多様性といった「価値」が失われたことは計算されません。
- GDPは「分配」を気にしない。国のGDPが2倍になっても、その富がすべてトップ1%の人々に渡り、残りの99%の人々の生活が変わらなくても、GDP上は「成功」です。
- GDPは「お金の動かない価値」を無視する。家事、育児、介護、ボランティア活動。これらは私たちの社会を支える不可欠な活動ですが、市場で取引されないため、GDPには一切含まれません。
私たちは、何十年もの間、この「欠陥だらけの目標」に向かって、アクセルを踏み続けてきました。
その結果が、今私たちが直面している「環境の破壊」と「社会の分断」なのです。
もう、この「成長中毒」から抜け出す時が来ています。
ケイト・ラワースは、GDPという「上へ、上へ」の一本道の地図を捨て、全く新しい「円形」の地図を提案しました。
それが「ドーナツ」です。
第2章:未来の羅針盤「ドーナツ経済学」とは何か?
ケイト・ラワースが描いたドーナツの図は、驚くほどシンプルです。
想像してみてください。美味しそうなドーナツが目の前にあります。
このドーナツには、2つの「境界線」があります。
- 内側の境界線(The Social Foundation)
- 外側の境界線(The Ecological Ceiling)
そして、私たちが目指すべき「目的地」は、この2つの境界線の間にある、**ドーナツの「食べられる部分」(The Safe and Just Space for Humanity)**です。
これは一体どういうことでしょうか?
1. ドーナツの「穴」:社会的な基盤(Social Foundation)
ドーナツの内側の境界線は、「これ以下に落ちてはいけない」という、人間が尊厳を持って生きるための最低限のラインを示しています。
ラワース氏は、国連のSDGs(持続可能な開発目標)なども参考に、世界中の人々が合意できるであろう12の基本的なニーズを「社会的な基盤」としてリストアップしました。
- 食料: 誰も飢えることがないように
- 水: 安全な水と衛生設備へのアクセス
- 健康: 質の高い医療を受けられること
- 教育: 全ての子どもが教育を受けられること
- 所得と仕事: 貧困ライン以下の生活を強いられないこと
- 平和と正義: 暴力や恐怖のない社会
- 政治的な発言権: 自分の意見が社会に反映されること
- 社会的な公平: 年齢、性別、人種などで差別されないこと
- ジェンダーの平等: 男女間の格差がないこと
- 住居: 安全で安定した住まいがあること
- エネルギー: クリーンで安価なエネルギーへのアクセス
- ネットワーク: 情報やコミュニティへのつながり
これら12項目が満たされていない状態。それが、ドーナツの真ん中の「穴」です。
世界を見渡せば、今この瞬間も、何億人もの人々がこの「穴」の中に落ち込み、基本的な生活さえままならない状況に苦しんでいます。経済の目的は、まず第一に、すべての人をこの「穴」から引き上げ、ドーナツの「食べられる部分」に乗せることであるべきだ、とラワース氏は主張します。
2. ドーナツの「外側」:地球の限界(Ecological Ceiling)
一方で、ドーナツには「外側の境界線」もあります。
これは、「これ以上、外側にはみ出してはいけない」という、地球環境の限界線を示しています。
私たちは、地球という閉じた生態系の中で生きています。地球が提供してくれる資源(水、空気、土壌、生物多様性)には限りがあり、また、地球が吸収・浄化できる汚染物質の量にも限界があります。
この「地球の限界」を科学的に定義しようとしたのが、高名な地球システム科学者であるヨハン・ロックストローム氏らが提唱した「プラネタリー・バウンダリー(Planetary Boundaries)」という概念です。
ラワース氏のドーナツは、このプラネタリー・バウンダリー研究に基づき、人類が超えてはならない9つの環境的な上限を設定しています。
- 気候変動: 温暖化の進行度
- 海洋酸性化: 海水が酸性化する度合い
- 化学物質汚染: 新規化学物質(プラスチックや有害物質など)による汚染
- 窒素・リンの循環: 肥料の使いすぎによる土壌や水の汚染
- 淡水の利用: 人間が使える真水の量
- 土地利用の変化: 森林伐採や都市開発
- 生物多様性の損失: 生き物の絶滅スピード
- 大気汚染: PM2.5などの大気汚染物質
- オゾン層の破壊: (これは唯一、国際的な取り組みで改善傾向にある項目です)
これら9つの境界線を一つでも超えてしまう(=オーバーシュートする)と、地球のシステム全体が不安定になり、人類が安全に暮らせる環境が根底から覆される危険があります。
3. 目指すべき場所:「安全で公正な場所」
もうお分かりでしょう。
ドーナツ経済学が目指すのは、ただ一つ。
内側の「社会的な基盤」(12項目)を誰も下回ることなく、
かつ、外側の「地球の限界」(9項目)を一つも超えることなく、
その間にある「安全で公正な、ドーナツの食べられる部分(The Safe and Just Space)」で、全人類が豊かに繁栄することです。
これは、従来の経済学が目指した「無限の成長」とは全く異なるゴールです。
GDPのように「上へ、上へ」と際限なく伸びていく矢印ではありません。
ドーナツ経済学が目指すのは、「均衡(バランス)」です。
それは「成長しない退屈な経済」を意味するのではありません。
ラワース氏は言います。「木は一定の大きさまで育つと、それ以上は高くならず、代わりに枝葉を広げ、実をつけ、森全体を豊かにする。経済も同じであるべきだ」と。
「量的成長」から「質的な発展」へ。
「無限に増やす」経済から、「繁栄を分配する」経済へ。
ドーナツ経済学は、経済の「OS(基本ソフト)」そのものを書き換えようとする、壮大な試みなのです。
第3章:衝撃の現実:私たちはドーナツを「はみ出しすぎている」
では、現在の私たちは、このドーナツの「どこ」にいるのでしょうか?
ケイト・ラワース氏が示した世界全体の「ドーナツ・スナップショット」は、衝撃的なものでした。
私たちは、ドーナツの「両側」から、深刻にはみ出しているのです。
内側の穴:深刻な「不足」(Shortfall)
まず、内側の「社会的な基盤」。
12項目のうち、所得、教育、平和、政治的発言権など、ほとんどの項目で、世界人口のかなりの割合が「穴」に落ち込んでいることが示されました。特にグローバル・サウス(開発途上国)の状況は深刻です。
私たちは、すべての人々を「穴」から救い出すという、経済の第一の目的を果たせていません。
外側の限界:破滅的な「超過」(Overshoot)
そして、より恐ろしいのが「外側」です。
9つの「地球の限界(プラネタリー・バウンダリー)」のうち、ラワース氏が著書を執筆した2010年代半ばの時点ですでに、
- 気候変動
- 生物多様性の損失
- 土地利用の変化
- 窒素・リンの循環
の4項目で、人類はすでに「安全な限界」を突破していることが示されました。
私たちは、未来の世代(そして私たち自身)の生存基盤を食いつぶしながら、現在の「豊かさ(に見えるもの)」を維持しているに過ぎなかったのです。
最新研究(2023年)が告げる、さらに過酷な現実
これだけでも衝撃的ですが、事態はさらに悪化しています。
2023年9月、プラネタリー・バウンダリー研究の第一人者であるヨハン・ロックストローム氏を含む研究チームが、最新の分析結果を発表しました。(出典:『Science Advances』誌, “Earth beyond six of nine planetary boundaries”)
その結果は、世界に戦慄を与えました。
9つの境界線のうち、実に「6つ」がすでに限界を超えていることが確認されたのです。
新た(に限界を超えたと明確にされたのは、「淡水の利用(特に土壌水分などの「グリー ンウォーター」)」と「化学物質汚染(プラスチックや内分泌攪乱物質など)」です。
残る「安全圏」は、「海洋酸性化」「大気汚染」「オゾン層の破壊」の3つだけ(うち海洋酸性化と大気汚染も悪化傾向)となってしまいました。
私たちは、ドーナツの外側に大きくはみ出し、地球という宇宙船の生命維持装置を、自らの手で次々と破壊しているのです。
この「内側は不足だらけ、外側は破壊だらけ」というダブル・パンチの現実こそが、私たちがGDP成長という古い地図に頼り続けた結果です。
もう一刻の猶予もありません。
私たちは、ドーナツの「内側」へ戻るための、全く新しい航海術を必要としています。
第4章:「成長に依存しない」経済へ:ドーナツが求める7つの思考転換
ドーナツ経済学は、単なる「目標設定」の図ではありません。
ケイト・ラワース氏は、私たちがこのドーナツの「安全で公正な場所」に到達するためには、20世紀の経済学が前提としてきた「古い7つの考え方」を、21世紀の「新しい7つの考え方」に書き換える必要があると説きます。
これがドーナツ経済学の「エンジン」部分であり、非常に重要です。
すべてを詳述すると、それだけで本が一冊書けてしまいますが、ここでは特に重要な「思考の転換」をいくつかピックアップして紹介します。
転換1:目標を「GDP成長」から「ドーナツ」へ
これは、まさにここまで述べてきたことです。経済の目的は、GDPを無限に増やすことではありません。ドーナツの「内側」に収まることです。
成功の指標を変えなければ、行動は変わりません。
転換2:経済を「自己完結型市場」から「社会と自然に埋め込まれたもの」へ
従来の経済学は、「市場」だけを取り出して分析しがちでした。しかし、経済は真空状態では成り立ちません。
経済は、
- 社会(家庭でのケア労働、コミュニティのつながり)
- 自然(地球が提供する資源とエネルギー)
という、より大きなシステムに「埋め込まれて」います。
市場の外にある「家庭」での無償労働(家事、育児、介護)や、「自然」がタダで提供してくれている恵み(きれいな空気、水)を無視して、経済は語れません。ドーナツ経済学は、これらすべてを経済システムの「土台」として再評価します。
転換3:人間性を「合理的な経済人」から「社会に協力する人間」へ
従来の経済学が描く人間像は「合理的な経済人(ホモ・エコノミカス)」でした。常に自分の利益だけを計算し、利己的に行動する、孤立した個人です。
しかし、現実の人間はそんなに単純でしょうか?
最新の行動経済学や神経科学は、人間が本質的に「社会的であり、他者に共感し、協力し合う存在」であることを明らかにしています。私たちは、お金だけでなく、信頼、評判、公平性、コミュニティへの所属意識によって動機付けられます。
ドーナツ経済学は、この「現実の人間性」を前提に、人々の協力や利他性を引き出すような制度設計(例えば、コモンズ=共有財の管理など)を重視します。
転換4:システムを「機械的な均衡」から「複雑な適応システム」へ
古い経済学は、経済を「需要と供給が釣り合って安定する」という、物理学のような「機械的システム」として捉えがちでした。
しかし、現実の経済は、気候や金融市場のように、多様な要素が複雑に絡み合い、予測不能な動きをする「複雑系(Complex Adaptive System)」です。
小さな変化が巨大な影響(バブル崩壊やパンデミックなど)を引き起こすこともあれば、逆に、大きなショックにも耐える「レジリエンス(回復力)」を持つこともあります。
この視点に立つと、経済政策は「最適な答えを一つ見つける」ことではなく、「多様な試みを許容し、変化に適応し続け、レジリエンスを高める」ことが重要になります。
転換5:成長のあり方を「『成長か否か』から『成長に依存しない』へ」
これが最もラディカルで、最も重要な転換かもしれません。
「経済成長は、環境に悪いからゼロにすべきだ(ゼロ成長、脱成長)」。
そう主張する人もいます。
しかしラワース氏は、もっと巧妙な罠が潜んでいると指摘します。
それは、私たちの社会が「構造的に成長に依存している」ことです。
どういうことか?
今のシステムでは、経済が成長しない(GDPが横ばいかマイナスになる)と、途端に深刻な問題が起きます。企業は倒産し、失業者が溢れ、政府は税収不足で社会保障をカットせざるを得なくなり、金融システムは不安定になります。
私たちは、いわば「成長という名のルームランナー」の上を走らされており、止まれば転倒してしまう状態なのです。
だからこそ、ラワース氏が目指すのは、「成長に依存しない経済(Growth-Agnostic)」を作ることです。
成長「しても」し「なくても」、社会的な基盤が守られ、地球の限界を超えないような経済システムを、あらかじめ設計するのです。
それは具体的に、富の分配を根本的に変えることを意味します。例えば、従業員が企業を所有する「協同組合」や、土地や資源から得られる利益を社会全体で共有する仕組み、ベーシックインカムの導入などが、その射程に入ってきます。
これらの思考転換は、私たちが100年以上かけて築き上げてきた「資本主義の常識」を、根底から問い直すものです。
第5章:世界はすでに動き出した:ドーナツ実践のリアルケース
「理想は分かった。でも、そんなことが本当に可能なのか?」
「GDP成長なしで、どうやって豊かになれるんだ?」
当然の疑問です。
ドーナツ経済学は、机上の空論ではありません。今、この瞬間も、世界中の都市、地域、企業が、この「ドーナツ」を自らのコンパスとして使い、具体的な行動を始めています。
その最前線を紹介しましょう。
ケース1:アムステルダム(オランダ)—世界初の「ドーナツシティ」宣言
ドーナツ経済学の実践において、最も有名で、最も包括的な取り組みを進めているのが、オランダの首都アムステルダムです。
2020年4月、アムステルダム市は、新型コロナウイルスのパンデミック(からの復興策として、世界で初めて「ドーナツ経済学」を公式な政策ガイドラインとして採用することを宣言しました。
彼らは、ケイト・ラワース氏と「Doughnut Economics Action Lab (DEAL)」(ドーナツ経済学の普及と実践を支援する組織)と協力し、「アムステルダム・シティ・ドーナツ」という詳細なレポートを作成しました。
これは、アムステルダムという都市の現状を、グローバルなドーナツ(地球全体の限界)とローカルなドーナツ(市民の生活)の両面から分析したものです。
- ローカルな社会基盤: 市民は十分な住居、医療、教育にアクセスできているか?
- ローカルな環境: 市内の大気汚染や水質はどうか?
- グローバルな社会貢献: アムステルダムが輸入する製品(カカオ、衣服など)の生産地で、児童労働や低賃金労働はないか?
- グローバルな環境負荷: アムステルダムの消費が、市外(世界)でどれだけのCO2排出や資源枯渇を引き起こしているか?
この「4つの視点」で現状を可視化した結果、アムステルダムは「豊かな都市」でありながらも、多くの課題(特に「手頃な価格の住宅不足」と、「市外への膨大な環境負荷」)を抱えていることが明らかになりました。
そこで市が打ち出したのが、「サーキュラー(循環型)戦略 2020-2025」です。
これは、従来の「作って、使って、捨てる(Linear)」経済から、「廃棄物ゼロ」を目指す「サーキュラーエコノミー(循環型経済)」へと、都市のOSを根本的に入れ替える壮大な計画です。
具体的には、
- 建設資材: 新築・改築時に、リサイクル素材やバイオベース素材の使用を義務化。将来解体する時に再利用できるよう「素材パスポート」を作成する。
- 食料と有機廃棄物: フードロスを削減し、廃棄された食料は堆肥化やバイオガス化で資源として活用する。地元の持続可能な農業を支援する。
- 消費財(家電、衣服など): 修理(リペア)や共有(シェアリング)、再利用(リユース)を促進するビジネス(リペアショップ、図書館ならぬ「道具図書館」など)を市が積極的に支援する。
アムステルダムの取り組みは、「環境に優しいことをしよう」という生易しいものではありません。「ドーナツの内側に収まること」を都市運営の「憲法」とし、そのために経済のルール(調達基準、規制、補助金)を根本から変えようとしているのです。
ケース2:コスタリカ—「成長」を捨て、「繁栄」を選んだ国
ドーナツ経済学という言葉が生まれる前から、その精神を体現してきた国があります。中央アメリカの小国、コスタリカです。
コスタリカは、1948年に「軍隊を廃止」するという世界でも類を見ない決断を下しました。そして、軍事費に充てるはずだった予算を、教育、医療、そして環境保全に振り向けたのです。
その結果はどうなったか?
- コスタリカは、中南米で最も安定した民主主義国の一つとなりました。
- 国民の識字率は98%、平均寿命は80歳を超え、多くの先進国と肩を並べる「高い社会的な基盤」を実現しています。
- 環境面では、1980年代には深刻だった森林破壊を逆転させ、国土の半分以上を再び森林で覆う「再森林化」に成功。
- 電力のほぼ100%(年間平均)を再生可能エネルギー(水力、地熱、風力)で賄っています。
GDP(の規模)だけを見れば、コスタリカは「豊かな国」とは言えないかもしれません。しかし、「幸福度調査」では常に世界トップクラスです。
彼らは、ドーナツの「内側(社会基盤)」を充実させ、「外側(環境)」を守るという、ドーナツ経済学の核心を、国家レベルで実践してきた稀有な例と言えます。
ケース3:ブリュッセル、メルボルン、コーンウォール…広がるドーナツの輪
アムステルダムの成功に触発され、世界中の都市や地域がDEALのパートナーとなり、独自の「シティ・ドーナツ」の取り組みを始めています。
- ブリュッセル(ベルギー): 市民参加型のワークショップを重ね、食料、住宅、モビリティ、雇用など、市民生活のあらゆる側面からドーナツへの移行を計画しています。
- メルボルン(オーストラリア): 「繁栄」の定義をGDPから市民のウェルビーイングへと転換する政策を進めています。
- コーンウォール(英国): かつて鉱業で栄え、今は衰退した地域が、ドーナツ経済学を「再生の羅針盤」として導入。地域に根ざした持続可能なビジネスを育成しています。
- バルセロナ(スペイン)、コペンハーゲン(デンマーク)、サンパウロ(ブラジル)… そのリストは、今も増え続けています。
ケース4:企業やビジネスの変革
ドーナツの考え方は、行政だけのものではありません。
「Doughnut Design for Business」というツールも開発され、企業が自らのビジネスモデルをドーナツの観点から見直す動きも始まっています。
- 自社のパーパス(存在意義)は、ドーナツに貢献するものか?
- 自社のネットワーク(サプライチェーン、顧客)は、ドーナTSの内側/外側にどのような影響を与えているか?
- 自社のガバナンス(所有形態、意思決定)は、富を分配し、再生する仕組みになっているか?
利益追求一辺倒だった企業が、「リジェネラティブ(再生的)」かつ「ディストリビューティブ(分配的)」なビジネスモデルへと自己変革を迫られています。
例えば、利益を株主だけでなく従業員や地域に還元する「協同組合」や「Bコープ(社会性・環境性を重視する認証企業)」、あるいは、製品を「売る」のではなく「サービスとして提供する(PaaS)」ことで資源循環を促すビジネスなどが、ドーナツ的な企業モデルとして注目されています。
第6章:ドーナツの「弱点」—課題と未来への展望
ここまでドーナツ経済学の可能性を見てきましたが、このモデルが「万能薬」だと言うつもりはありません。
普及が進むにつれて、いくつかの重要な課題や批判的視点も浮上しています。
課題1:「何を」「どう測るか」の難しさ
ドーナツは「目標」を示しますが、そこに至る「具体的な道筋」や「指標の重み付け」は、それぞれの地域やコミュニティが自ら設計しなければなりません。
例えば、アムステルダムが直面している「住宅不足」。これを解決するために新しい住宅を建設すれば、一時的に「環境負荷(外側)」が大きくなるかもしれません。
「社会的な基盤(内側)」の充実と、「地球の限界(外側)」の遵守。この2つが**トレードオフ(二律背反)**になった時、何を優先するのか?
その「公正な」意思決定プロセスをどう構築するかは、非常に難しい問題であり、活発な議論が続いています。
課題2:既得権益との戦い
ドーナツ経済学が提唱する「成長に依存しない経済」や「富の分配」は、現在の経済システムで莫大な利益を得ている人々(巨大企業、金融資本、富裕層)にとっては、都合の悪い話です。
GDP成長という「古い物語」にしがみつく人々からの抵抗は、想像以上に根強いものがあります。ドーナツへの移行は、単なる政策変更ではなく、社会の「権力構造」そのものへの挑戦でもあります。
課題3:グローバルな不平等の問題
ドーナツを「はみ出している」責任は、誰にあるのでしょうか?
歴史的に見て、気候変動や資源枯渇の主な原因を作ってきたのは、私たち「豊かな国(グローバル・ノース)」の大量生産・大量消費・大量廃棄のライフスタイルです。
その一方で、ドーナツの「穴」で苦しんでいるのは、その「ツケ」を払わされている「貧しい国(グローバル・サウス)」の人々です。
この**「気候正義」と「南北問題」**を抜きにして、ドーナツ経済学は語れません。
豊かな国は、自らの「はみ出し」を早急に是正する(消費を減らし、環境負荷を下げる)責任があります。同時に、貧しい国が「穴」から脱出し、ドーナTSの「食べられる部分」に到達できるよう、技術や資金(賠償を含む)を提供する義務があります。
このグローバルな「責任の分配」こそが、ドーナツ実現のための最大の難関かもしれません。
結論:ドーナツ的思考こそが、私たちの「生存戦略」である
長い旅も、終わりに近づきました。
ケイト・ラワースが描いた一枚の「ドーナツ」の図。
それは、単なる経済理論ではなく、21世紀を生きる私たち全員に向けられた、根本的な「問い」です。
私たちは、どのような未来を選びたいのか?
「無限の成長」という幻想を追い続けた結果、地球の生命維持装置を壊し、社会のつながりを断ち切り、自らの首を絞める未来か。
それとも。
「成長」という言葉の呪縛から自らを解き放ち、地球の恵みに感謝し、その「限界」を賢く受け入れ、すべての人々が尊厳を持って豊かに暮らせる「均衡」の未来か。
ドーナツ経済学は、後者を選ぶための「羅針盤」です。
それは遠い国の政府や、大都市の市長だけのものではありません。
私たち一人ひとりの日々の選択の中に、ドーナツ的思考は生きています。
- その食べ物、その服は、どこから来たのか?(内側:生産者の人権、外側:環境負荷)
- 自分の仕事は、お金を稼ぐ以外に、社会や地球に何をもたらしているか?
- 自分のコミュニティで、「穴」に落ちて困っている人はいないか?
- 新しいモノを買う代わりに、修理したり、共有したりできないか?
20世紀の経済学が「いかに市場を成長させるか」の学問だったとすれば、
21世紀のドーナツ経済学は、「いかにして繁栄を分かち合い、地球と共生するか」の実践知です。
道は険しく、抵抗も大きいでしょう。
しかし、プラネタリー・バウンダリー(地球の限界)の最新研究が示すように、私たちに残された時間は、もはやありません。
古い地図を捨て、新しい羅針盤を手に取る時が来ています。
あなたの食卓に「ドーナツ」が並ぶことはないかもしれませんが、あなたの頭の中に「ドーナツ経済学」という思考のOSをインストールすることは、今日からでも始められるはずです。
それが、この壊れかけた惑星で私たちが生き延びるための、最も現実的で、最も希望に満ちた「生存戦略」なのですから。


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