第1章:その「お手伝い」は、本当に美談ですか?
「お母さんの面倒を見て、えらいね」
「いつも弟の世話をして、しっかり者だね」
そんな言葉をかけられた子どもは、きっと誇らしげに、少し照れたように笑うでしょう。家族を助けることは、尊い行為です。しかし、もしその「お手伝い」が、子どもの年齢や発達に見合わない重すぎる責任を伴い、学校生活や友人関係、心と体の健康、そして将来の夢までも蝕んでいるとしたら、私たちはそれを手放しで「美談」と呼べるのでしょうか。
ここに、ヤングケアラー問題の根源的な難しさがあります。
ヤングケアラーとは、法令上の明確な定義はありませんが、一般的に「本来大人が担うと想定されている家事や家族の世話などを日常的に行っていることにより、子どもの権利が侵害されている状態にある18歳未満の子ども」とされています。
彼らが担うケアは、多岐にわたります。
- 身体的な介護: 病気や障がいのある家族の入浴、食事、排泄の介助、薬の管理。
- 家事労働: 幼いきょうだいの世話、食事の準備、掃除、洗濯、買い物。
- 感情的なサポート: 不安や悩みを抱える家族の話し相手になる、慰める、元気づける。
- 通訳や家計管理: 外国にルーツを持つ家族のための通訳、家計を支えるための金銭管理。
これらは、断片的に見れば「家族の一員として当たり前のお手伝い」に見えるかもしれません。しかし、ヤングケアラーの問題の本質は、その行為が「子どもの生活の中心」となり、過剰な負担と責任を強いている点にあります。週に数時間のお手伝いではありません。毎日、何時間も、時には夜中も続くケアを、たった一人で、あるいは不十分なサポートの中で担っているのです。
この問題が見過ごされがちな理由は、主に3つあります。
第一に、**「家庭内のプライベートな問題」**と捉えられがちなこと。家族のあり方はそれぞれであり、外部が口を出しにくいという空気が、問題を潜在化させます。
第二に、子ども自身が「自分はヤングケアラーだ」と自覚していないケースが非常に多いこと。物心ついた時からそれが「当たり前」の日常であれば、自分が特別な状況にあるとは気づきません。「自分がやらなければ家族が崩壊してしまう」という強い責任感から、誰にも助けを求めるという発想に至らないのです。
そして第三に、先述した**「美談化」の罠**です。子どもが健気に家族を支える姿は、周囲の目に「感心なこと」と映りがちです。その称賛の言葉が、かえって子どもを「助けて」と言えない状況に追い込んでいるとしたら、それはあまりに皮肉なことです。
ヤングケアラーは、スーパーヒーローではありません。彼らは、大人に代わって重すぎる鎧を身につけさせられた、ごく普通の子どもたちなのです。その鎧の下で、心と体が悲鳴を上げていることに、私たち社会はいつ気づけるのでしょうか。
第2章:17人に1人という衝撃 ― 数字が語る声なき現実
「ヤングケアラーなんて、ごく一部の特別な家庭の話でしょ?」
そう思う方も少なくないかもしれません。しかし、公的な調査データは、私たちの想像をはるかに超える現実を突きつけています。
2022年度にこども家庭庁が実施した「ヤングケアラーの実態に関する調査研究」は、この問題の規模感を日本社会に明確に示しました。この調査によると、驚くべきことに、中学2年生の5.7%が「世話をしている家族がいる」と回答しています。
**5.7%。**これは、クラスに40人の生徒がいれば、そのうち2人以上がヤングケアラーである可能性が高いことを意味します。あなたの記憶の中の教室を思い浮かべてみてください。隣の席の子、後ろの席の子。誰が、人知れず家族のケアという重責を担っていたとしても、何ら不思議ではないのです。
さらに衝撃的なのは、高校2年生の数字です。全日制高校では4.2%ですが、**定時制高校では8.5%、通信制高校では11.0%**と、その割合は顕著に高くなります。これは、家庭のケア負担が、子どもの進路選択に直接的な影響を及ぼしている可能性を強く示唆しています。ケアのために全日制の高校に通うことが難しく、時間的な融通が利きやすい定時制や通信制を選ばざるを得ない子どもたちが、これほど多く存在するのです。
彼らは、一体どれくらいの時間をケアに費やしているのでしょうか。
同調査では、ヤングケアラーが平日にケアに費やす時間は、平均で4.0時間にものぼります。週末や休日はさらに増える傾向にあるでしょう。
考えてみてください。学校から帰ってきて、友だちとメッセージを交わしたり、ゲームをしたり、部活の練習に励んだり、塾の宿題に取り組んだりする時間。多くの子どもにとって当たり前のその日常が、ヤングケアラーにはありません。彼らの放課後は、家族のケアという「仕事」で埋め尽くされているのです。
ケアの内容も深刻です。最も多いのは「きょうだいの世話」(61.8%)ですが、「食事の準備や後片付け、掃除、洗濯などの家事」(56.6%)、「見守り」(37.0%)、「感情的なサポート」(33.9%)と続きます。中には、「入浴やトイレの介助」(9.9%)といった身体的な負担が大きいケアや、「家族に代わって金銭の管理をしている」(7.4%)といった、本来子どもが負うべきではない責任を担っているケースも少なくありません。
これらの数字は、単なる統計データではありません。それは、声なき子どもたちの悲鳴の集積です。教室の片隅で、地域の中で、誰にも気づかれずに孤立し、子ども時代にしか経験できない貴重な時間を奪われている子どもたちが、確かに存在するという動かぬ証拠なのです。
「17人に1人」という数字を、私たちは決して他人事として受け流してはなりません。それは、この社会に生きる私たち全員に突きつけられた、あまりにも重い課題なのです。
第3章:声なき子どもたちの物語 ― 3つのケース
統計データだけでは見えてこない、ヤングケアラー一人ひとりの痛みや葛藤。ここでは、個人が特定されないよう配慮した上で、実際に報告されている複数のケースを基に、彼らがどのような日常を生きているのかを見ていきましょう。
ケース1:精神疾患の母を支える、高校2年生の美咲さん
美咲さんの朝は、母親の部屋のドアをそっと開けることから始まります。うつ病を患う母親が、今日もちゃんと目を覚ますか、ひどく落ち込んでいないかを確認するためです。母親の調子が良い日は、簡単な朝食を一緒に食べ、笑顔で「いってきます」を言えます。しかし、調子が悪い日は、ベッドから起き上がれない母親のために薬と水を用意し、パンを枕元に置いてから、足早に家を出ます。
学校にいても、常に頭の片隅には母親のことがあります。「薬は飲んだかな」「また一人で泣いていないかな」。スマートフォンの着信音が鳴るたびに、心臓がどきりとします。友人たちがお昼休みに恋バナやアイドルの話で盛り上がっていても、美咲さんは心から笑えません。その輪の中に、自分だけが違う世界を生きているような疎外感を感じるのです。
放課後は、寄り道もせず真っ直ぐに帰宅します。スーパーで夕食の材料を買い、夕食を作り、母親の話し相手になります。母親の感情の波は激しく、時には美咲さんに辛く当たることもあります。それでも美咲さんは、「私がいなければ、お母さんはもっとダメになってしまう」と、必死にその言葉を受け止め、笑顔を作り続けます。
深夜、自分の部屋でようやく一人になれた時、美咲さんは声を殺して泣きます。本当は、友だちと夜遅くまでおしゃべりしたい。好きなバンドのライブに行きたい。大学受験の勉強にもっと集中したい。でも、そんな「普通の高校生」の願いは、決して口に出せません。相談できる大人もいません。父親は数年前に家を出ていき、親戚にも母親の病気のことを詳しく話せず、孤立しています。学校の先生に相談すれば、母親がどこかへ連れて行かれてしまうのではないかという恐怖もあります。
美咲さんのたった一つの願いは、「お母さんに、元気だった頃のように笑ってほしい」こと。そのために、彼女は今日も自分の心を削りながら、「しっかり者の娘」を演じ続けるのです。
ケース2:障がいのある弟の世話をする、小学5年生の拓也くん
拓也くんには、3歳年下の弟がいます。弟は重度の知的障がいと身体障がいがあり、常に誰かの見守りが必要です。両親は共働きで、日中は弟を福祉施設に預けていますが、帰宅が遅くなることもしばしばです。そのため、施設から帰ってきた弟の世話は、学校から帰った拓也くんの役割です。
拓也くんは、弟が口から食べ物をこぼせば、それを拭き、着替えさせます。弟がパニックを起こして泣き叫べば、大好きなおもちゃであやし、落ち着かせようとします。宿題をしようとしても、弟が邪魔をしてきてなかなか進みません。友だちから「公園でサッカーしようぜ!」と誘われても、「ごめん、弟の面倒見なきゃいけないから」と断るのが当たり前になりました。いつしか、誰も拓也くんを遊びに誘わなくなりました。
学校では、拓也くんは少し乱暴な子だと思われています。自分の思い通りにならないことがあると、すぐにカッとなってしまうからです。しかし、それは家庭で常に「お兄ちゃんだから我慢しなさい」と言われ続け、自分の感情を抑圧してきたことの裏返しでした。学校でだけ、彼は溜め込んだフラストレーションを爆発させてしまうのです。
本当は、弟のことが嫌いなわけではありません。可愛いと思う時もあります。でも、時々、どうしようもなく「弟なんていなければいいのに」と思ってしまう自分に気づき、そんな黒い感情を抱く自分を激しく責めます。親に「疲れた」とか「大変だ」なんて、口が裂けても言えません。自分よりもっと大変な思いをしている両親を、これ以上困らせたくないからです。
拓也くんの小さな肩には、弟の命と生活、そして「良いお兄ちゃん」でいなければならないというプレッシャーが、重くのしかかっているのです。
ケース3:高齢の祖父母の介護と家事を担う、中学1年生の優子さん
優子さんは、80代の祖父母と3人で暮らしています。両親は優子さんが幼い頃に離婚し、母親は仕事でほとんど家にいません。祖母は認知症が進み、食事をしたことを忘れたり、夜中に突然徘徊したりします。祖父は足腰が弱く、家のことはほとんど何もできません。
優子さんの放課後は、戦争のようです。帰宅するとすぐに、洗濯物を取り込み、祖父母の昼食の片付けをし、夕食の準備を始めます。祖母が好む、柔らかく煮込んだ料理を作るのも手慣れたものです。祖母がトイレに失敗すれば、黙って後始末をします。夜、勉強をしようとしても、祖母が何度も「優子、優子」と呼ぶため、集中できません。
週末、同級生たちがショッピングや映画に出かける中、優子さんは祖父母を連れて病院に行くこともあります。医師からの説明も、優子さんが聞きます。ケアマネージャーとのやりとりも、優子さんが担っています。彼女の言葉遣いや態度は、同年代の子どもと比べて驚くほど大人びています。
しかし、その「大人びた」態度の裏で、優子さんの心は限界に近づいていました。学校の制服がだんだん小さくなっても、母親に「新しいものを買ってほしい」と言い出せません。家計が苦しいことを知っているからです。修学旅行の積立金の案内が来ても、どうしようかと一人で悩みます。
彼女は、自分が「介護」をしているという意識すらありませんでした。それは彼女にとっての「日常」であり、「家族だから当たり前」のことだったのです。しかし、その当たり前のために、彼女は友だちと笑い合う時間、自分の将来について夢想する時間、そして何より、誰かに甘え、頼るという子どもにとって最も大切な権利を、静かに剥奪されていたのです。
これらの物語は、氷山の一角に過ぎません。しかし、ヤングケアラーが置かれた状況の過酷さ、そして彼らが抱える孤独と葛藤の深さを、少しでも感じていただけたのではないでしょうか。
第4章:見過ごされるSOS ― ヤングケアラーが失うもの
家族をケアする子どもたちは、その代償として、子ども時代にしか得られない多くのものを静かに失っていきます。それは、単に「時間がない」という問題ではありません。彼らの未来そのものを左右する、深刻な影響が多岐にわたって存在します。
1. 学びの機会の剥奪と教育格差
ヤングケアラーにとって、学業との両立は極めて困難です。
まず、単純な時間の不足が挙げられます。毎日のケアに追われ、宿題をする時間、予習・復習をする時間が十分に確保できません。睡眠不足から授業に集中できず、成績が低下していく子どもも少なくありません。
こども家庭庁の調査でも、ヤングケアラーの**約10人に1人が「遅刻や早退をすることがある」と回答しています。また、「学校を休むことがある」**と答えた子どもも7.0%にのぼります。ケアを優先せざるを得ず、教育を受ける権利が脅かされているのです。
さらに深刻なのは、進路選択への影響です。
「本当は大学に行きたかったけれど、家を離れられないから地元の専門学校にした」
「家族のケアがあるから、部活動に打ち込めず、スポーツ推薦の道を諦めた」
「家計を助けるために、高校を卒業したらすぐに働かなければならない」
このように、本来であれば無限の可能性が広がっているはずの未来が、家庭の状況によって狭められてしまうのです。これは、本人の努力ではどうにもならない「教育格差」そのものであり、将来的な貧困の連鎖にもつながりかねない、重大な問題です。
2. 心と体の悲鳴 ― 健康問題
ヤングケアラーの心身にかかる負担は、計り知れません。
身体的には、慢性的な睡眠不足が最も一般的です。夜中のケアや、心配事で眠れない日々が続けば、成長期の子どもの健康が損なわれるのは当然です。自分より体の大きな家族の介護をしている場合は、腰痛など身体的な不調を抱えることもあります。
精神的な負担はさらに深刻です。
常に家族のことを気にかける精神的な緊張状態、自分の時間が持てないことによるストレス、将来への不安。こうした感情が積み重なり、うつ病や不安障害などの精神疾患を発症するリスクも高まります。
また、ケアをする中で、本来子どもが見る必要のない家族の苦しむ姿や、厳しい現実に直面することもあります。これは**トラウマ(心的外傷)**となり、長期にわたって子どもの心に影を落とす可能性があります。自分の感情を押し殺し、常に「良い子」でいることを強いられる経験は、健全な自己肯定感の形成を妨げ、大人になってからの人間関係にも影響を及ぼすことがあります。
3. 社会的な孤立 ― 失われる人間関係
友だちと遊んだり、部活動に参加したり、他愛のないおしゃべりをしたり。こうした経験は、子どもが社会性を身につけ、豊かな人間関係を築く上で不可欠なものです。しかし、ヤングケアラーは、ケアを優先するあまり、こうした機会を逸してしまいます。
放課後や休日の誘いを断り続けるうちに、次第に友だちから誘われなくなり、人間関係が希薄になっていきます。家庭の複雑な事情を友人に話すことは難しく、悩みを共有できないことから、深い孤独感に苛まれる子どもも少なくありません。
学校というコミュニティの中で、自分だけが違う世界を生きているような感覚。同世代の文化や流行から取り残されていく焦り。こうした疎外感は、子どもをさらに自分の殻に閉じこもらせる悪循環を生み出します。
彼らは、助けを求めたくても、その方法を知りません。誰に、何を、どう話せばいいのか分からないのです。周囲に心配をかけたくないという優しさと、家庭の事情を他人に知られたくないという気持ちが、SOSの声をかき消してしまいます。
ヤングケアラーが失っているのは、勉強の時間や遊ぶ時間だけではありません。それは、**「子どもらしくある権利」**そのものです。失敗したり、甘えたり、無邪気に笑ったり、未来を夢見たりする、かけがえのない時間。そのすべてが、過剰な責任の下で奪われているのです。この静かなる権利侵害に、私たち社会はもっと敏感になる必要があります。
第5章:なぜヤングケアラーは生まれるのか? ― 社会構造に潜む病理
ヤングケアラー問題は、決して個別の家庭だけの責任で生じるものではありません。その背景には、現代の日本社会が抱える、複数の構造的な問題が複雑に絡み合っています。この問題を根本的に理解するためには、私たちの社会のあり方そのものに目を向ける必要があります。
1. 家族の変容と地域の希薄化
かつての日本では、三世代同居が当たり前で、地域社会にも濃密な人間関係がありました。子育てや介護は、家族だけでなく、親戚や近所の人々が互いに助け合うのが普通でした。
しかし、核家族化が進み、都市部への人口集中によって地域のつながりが希薄になった現代では、子育てや介護の負担は、個々の家庭内に集中しがちです。特に、ひとり親家庭や、共働きで時間的・経済的余裕のない家庭では、その負担はさらに深刻になります。困った時に気軽に頼れる親戚や近所の人がいない。その結果、家族の中で最も弱い立場にある子どもが、ケアの担い手とならざるを得ない状況が生まれるのです。
2. 福祉制度の「狭間」
もちろん、日本には介護保険や障害福祉サービスなど、様々な公的支援制度が存在します。しかし、ヤングケアラー家庭の多くは、これらの制度からこぼれ落ちてしまう「狭間」に置かれています。
例えば、親がまだ40代や50代で、うつ病やアルコール依存症などの精神的な問題を抱えている場合。こうしたケースは、高齢者介護や障害者福祉の典型的な対象とは見なされにくく、利用できるサービスが限られます。また、制度を利用するには申請が必要ですが、心身ともに疲弊している家族が、複雑な手続きを行う気力を持てないことも少なくありません。
さらに、外国にルーツを持つ家庭では、言葉の壁や文化の違いから、そもそもどのような支援があるのかという情報にアクセスすること自体が困難な場合もあります。
公的なサポートが十分に届かない「空白地帯」。その空白を、子どもたちが自らの犠牲によって埋めているのが、ヤングケアラー問題の一つの側面なのです。
3. 「家族のことは家族で」という根強い価値観
「家内の恥は外に晒すな」という言葉に象徴されるように、日本社会には今なお、「家族の問題は、家族内部で解決すべきだ」という価値観が根強く残っています。病気や障がい、貧困といった問題を、外部に助けを求めるべき「課題」ではなく、隠すべき「恥」と捉えてしまう傾向があるのです。
この文化的背景は、当事者家族を社会から孤立させます。そして、子ども自身にも「家のことを他人に話してはいけない」「自分が頑張れば丸く収まる」という強い内向きの圧力をかけ、SOSを封じ込める原因となっています。
4. 子どもの権利に対する認識の低さ
日本では、「子どもは親の所有物」という意識が、残念ながらいまだに払拭されていません。子どもの意見や感情よりも、親や家庭の都合が優先されがちです。
1994年に日本が批准した「子どもの権利条約」では、子どもには「休息し、余暇を楽しみ、遊び、文化的・芸術的な生活に参加する権利」(第31条)や、「自己の意見を表明する権利」(第12条)が保障されています。ヤングケアラーが置かれた状況は、明らかにこれらの権利が侵害されている状態です。
しかし、社会全体として「子どもにも一人の人間としての権利がある」という認識が十分に浸透していないため、子どもが過剰なケアを担っていても、「家族を助けてえらい」という称賛で終わってしまい、その裏にある権利侵害が見過ごされてしまうのです。
ヤングケアラー問題は、社会のセーフティネットの綻び、古い価値観、そして子どもへの人権意識の欠如が交差する点で発生する、まさに「社会が生み出す問題」なのです。子ども一人を責めても、一つの家庭を非難しても、決して解決には至りません。私たち一人ひとりが、この社会構造の病理と向き合うことから、本当の解決策は見えてくるはずです。
第6章:私たちに何ができるのか? ― 社会全体で子どもを支えるために
ヤングケアラー問題の深刻さを理解した上で、最も重要なのは「では、私たちに何ができるのか?」という問いです。この問題を解決するためには、国や自治体といった行政の取り組みはもちろん、学校、地域、そして私たち一人ひとりがそれぞれの立場で役割を果たしていく必要があります。
ステップ1:【気づく】― あなたの視線が、最初のSOSキャッチになる
ヤングケアラーの多くは、自分から「助けて」と言えません。だからこそ、周りの大人がその小さなサインに「気づく」ことが、支援の第一歩となります。
- 学校の先生ができること:
- 遅刻、欠席、早退が目立つ。
- 授業中に居眠りをしている、集中力がない。
- 宿題の提出が遅れがち、忘れ物が多い。
- 体操服や制服が汚れていたり、季節に合っていなかったりする。
- 友人との交流を避け、一人でいることが多い。
- 年齢に不相応な大人びた言動や、逆に幼い言動が目立つ。
- 家庭の話題を避ける。
- 地域の人々(民生委員、近所の人、習い事の先生など)ができること:
- いつも子どもだけで買い物や幼いきょうだいの世話をしている。
- 地域の子どもの集まりに参加しない。
- 表情が乏しく、疲れているように見える。
ステップ2:【つなぐ】― 孤立させないための情報提供と連携
子どもや家族が孤立しないように、適切な支援機関に「つなぐ」ことが極めて重要です。
- 公的な相談窓口:
- 市区町村の子育て支援担当課や福祉担当課: 多くの自治体でヤングケアラー専門の相談窓口の設置が進んでいます。ヘルパー派遣やショートステイ、カウンセリングなど、具体的なサービスにつなげてもらえる可能性があります。
- 児童相談所: 虐待が疑われる場合など、緊急性が高いケースに対応します。全国共通ダイヤル「189(いちはやく)」にかければ、最寄りの児童相談所につながります。
- スクールソーシャルワーカー(SSW): 学校を拠点に、家庭や関係機関と連携して問題を解決する専門職です。
- NPOなどの民間支援団体:
- (一社)日本ケアラー連盟や**(一社)ヤングケアラー協会**など、全国にはヤングケアラー支援に特化した団体が複数存在します。
- これらの団体は、ヤングケアラー同士が交流できるオンラインサロンや居場所(ピアサポート)の運営、個別の相談対応、情報提供などを行っています。同じ境遇の仲間と出会えることは、子どもにとって大きな心の支えになります。
ステップ3:【支える】― 社会全体でケアを分担する
最終的には、子どもが担っているケアを社会全体で分担し、負担を軽減していく仕組みが必要です。
- 国の役割:2022年6月に成立した「こども基本法」では、子どもの権利が改めて明確にされました。これに基づき、国はヤングケアラーの実態把握を継続し、支援策を全国的に展開する責務があります。自治体への財政支援、支援人材の育成、そして何よりもヤングケアラー問題の社会的な認知度を高めるための広報活動が求められます。
- 私たち一人ひとりができること:
- まずは知る、そして伝える: この記事で読んだようなヤングケアラーの現実を、まずは正しく理解すること。そして、家族や友人、同僚との会話の中で話題にし、社会の認知度を高めていくこと。それが、偏見をなくす第一歩です。
- 美談化をやめる: 家族のケアをする子どもを見ても、「えらいね」だけで終わらせない。「大変じゃない?」「何か手伝おうか?」と、その負担に寄り添う言葉をかける意識を持つことが大切です。
- 支援団体への寄付やボランティア: ヤングケアラーを支援するNPOの多くは、資金や人手が不足しています。少額の寄付や、イベントの手伝いなどのボランティア参加も、貴重な支援になります。
- 自分の地域に関心を持つ: 自分の住む自治体では、どのようなヤングケアラー支援が行われているのかを調べてみる。地域の福祉活動や子ども食堂などにアンテナを張り、関心を持つことも、地域全体の支援力を高めることにつながります。
ヤングケアラー問題は、一人のヒーローの登場で解決するような単純な話ではありません。学校の先生が、地域の民生委員が、NPOのスタッフが、そして隣に住む私たちが、それぞれの場所で小さな役割を果たす。その点と点がつながり、線となり、面となっていくことで、初めて子どもたちを支える頑丈なセーフティネットが編み上げられるのです。
結論:すべての子どもが「子ども」でいられる社会へ
私たちはこれまで、ヤングケアラーという言葉の定義から始まり、その驚くべき実態、声なき子どもたちの物語、彼らが失うもの、そして問題を生み出す社会構造へと、深く潜ってきました。
ヤングケアラー問題は、単なる「介護問題」や「福祉問題」の一分野ではありません。それは、この社会の歪みが、最も弱い立場にある子どもたちに、過剰な負担という形で表出した**「子どもの権利の問題」であり、「人権問題」**です。
彼らが本当に求めているのは、同情や特別な扱いではないのかもしれません。
ただ、友だちと同じように笑い、悩み、部活に汗を流し、将来の夢を語り合いたい。誰かに甘え、時にはわがままを言い、失敗を恐れずに挑戦したい。そんな、どこにでもいる「普通の子ども」としての時間を、ただ取り戻したいだけなのです。
この記事を読んでくださったあなたが、明日から少しだけ、周りの子どもたちを見る目が変わったとしたら。近所の子どもの疲れた表情に、何か背景があるのかもしれない、と想像力を働かせることができたとしたら。ヤングケアラーという言葉を聞いた時に、「それは社会全体で考えるべき問題だ」と、自分の言葉で語れるようになったとしたら。
その小さな変化こそが、声なきSOSを抱える子どもたちを救う、最もパワフルな力になります。
すべての子どもが、その年齢にふさわしい経験を積み、健やかに成長し、未来への希望を抱ける。そんな当たり前の社会を実現する責任は、今を生きる私たち大人全員にあります。あなたの行動一つひとつが、暗闇の中で一人耐える子どもの心を照らす、確かな光となることを信じて。
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