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「65歳の壁」― ある日突然、あなたの“生きる権利”が奪われるとしたら。障害福祉と介護保険の狭間で起きていること。

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はじめに:その誕生日は、祝福される日ではなかった

「お誕生日おめでとうございます」

65歳になるその日、多くの人は家族や友人に祝福され、これまでの人生を振り返り、新たなステージへの一歩を踏み出すのかもしれません。しかし、日本には、その日を境に、これまで築き上げてきた生活が根底から覆されるかもしれないという恐怖と不安の中で迎える人々がいます。

彼らは、障害とともに生きてきました。

病気や事故で身体に重い障害を負った人。生まれながらに知的障害や精神障害のある人。

一人ひとり、その人生も、必要な支援も全く違います。

彼らの生活を支えてきたのが、「障害者総合支援法」という法律です。この法律は、障害のある人が、住み慣れた地域で、自分らしく、自立した生活を送ることを目的としています。個々の障害の特性や程度、そして「こんな風に生きたい」という願いに応じて、必要なサービスを提供する、いわばオーダーメイドの支援です。

しかし、65歳という年齢の線引きが、この当たり前の日常を突然断ち切ります。

原則として、65歳になると「介護保険法」が優先的に適用されることになるからです。

「法律が変わるだけでしょう?」「高齢者向けのサービスが受けられるなら、良いことじゃないか」

そう思う方もいるかもしれません。しかし、この制度の移行は、当事者にとって、単なる手続きの変更ではありません。それは、支援の理念、サービスの内容、そして自己負担額という、生活の根幹を揺るがす、あまりにも大きな変化なのです。

この記事では、障害者総合支援法と介護保険法の「狭間」に落ちてしまう、この「65歳の壁」問題について、当事者の視点から、その実態と理不尽さを、できるだけ分かりやすくお伝えしたいと思います。これは、遠い誰かの話ではありません。私たちの社会が抱える、命と尊厳に関わる問題です。

第1章:二つの法律、それぞれの目的と「すれ違い」

なぜ、こんな問題が起きてしまうのでしょうか。まずは、二つの法律がどのようなものなのか、その成り立ちと目的の違いから見ていきましょう。

「自立と社会参加」を支える障害者総合支援法

正式名称を「障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律」といいます。この法律の最も大切な理念は、「共生社会の実現」です。障害の有無によって分け隔てられることなく、誰もが人格と個性を尊重され、安心して暮らすことができる社会を目指しています。

そのために、障害のある人々の「自己決定の尊重」と「選択の機会の確保」を重視しています。つまり、「施設に入るか、家で暮らすか」「どんな仕事をするか」「誰と、どこで、どのように過ごすか」といったことを、本人が自分で決めることを支えるのが、この法律の役割です。

提供されるサービスは多岐にわたります。

例えば、

  • 居宅介護(ホームヘルプ): 入浴や食事などの身体介護、調理や掃除などの家事援助。
  • 重度訪問介護: 常に介護を必要とする最重度の障害がある人に対し、24時間体制で、食事や排せつ、入浴などの身体介護から、外出時の支援、コミュニケーションの補助、緊急時の対応まで、包括的な支援を提供します。これは、多くの難病患者や重度障害者が地域で生活を続けるための生命線です。
  • 同行援護: 視覚障害のある人の外出をサポートし、移動の援護や代読・代筆などを行います。
  • 行動援護: 知的障害や精神障害により、行動上著しい困難がある人の危険を回避するための援護や外出支援を行います。
  • 自立訓練(機能訓練・生活訓練): 地域での自立した生活のために、身体機能や生活能力の維持・向上を目指す訓練を行います。
  • 就労移行支援・就労継続支援: 一般企業への就職を目指す訓練や、働く場を提供します。

これらのサービスは、障害支援区分(個々の障害の特性や心身の状態に応じて、どれくらいの支援が必要かを判定する区分)や本人の意向に基づいて、支給量が決まります。費用は、本人や世帯の所得に応じて負担額が決まる「応能負担」が基本です。

この法律は、「障害」を個人の問題として捉えるのではなく、社会との関わりの中で生じる「障壁(バリア)」こそが問題なのだという「社会モデル」の考えに基づいています。だからこそ、その人の「社会参加」を積極的に支援するサービスが充実しているのです。

「尊厳の保持と自立した日常生活」を目指す介護保険法

一方、介護保険法は、2000年に施行された比較的新しい法律です。高齢化が急速に進む中で、増大する介護のニーズに社会全体で対応するために作られました。

目的は、「加齢に伴って生ずる心身上の変化に起因する疾病等により要介護状態となった者について、これらの者が尊厳を保持し、その有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるよう」支援することです。

対象者は、原則として65歳以上の「第1号被保険者」と、40歳から64歳までの医療保険加入者で特定の疾病(がん末期や関節リウマチなど16種類)がある「第2号被保険者」です。

提供されるサービスは、要介護度(要支援1・2、要介護1~5)に応じて、利用できる種類や量が決まります。例えば、

  • 訪問介護(ホームヘルプ): 身体介護や生活援助など。
  • デイサービス(通所介護): 施設に通い、入浴や食事の提供、レクリエーションなどを受けます。
  • ショートステイ(短期入所生活介護): 短期間施設に宿泊し、介護を受けられます。

費用は、サービス利用料の1割(所得に応じて2割または3割)を負担する「応益負担」が基本です。つまり、使ったサービスの量に応じて負担額が決まります。

なぜ、すれ違うのか?

二つの法律は、どちらも国民の生活を支える重要な制度です。しかし、その根底にある理念と仕組みが異なります。

  • 障害者総合支援法: 「障害」という個別のニーズに着目し、「社会参加」という積極的な目的を持つ。支援はオーダーメイド。
  • 介護保険法: 「加齢」という普遍的な現象に着目し、「日常生活の維持」を主眼に置く。支援はパッケージ化・類型化されている。

この理念の違いが、「65歳の壁」という問題の根源にあります。障害のある人が65歳になると、その人の障害の特性や生活実態が変わるわけでもないのに、法律の適用が「加齢」をベースにした介護保険へと切り替わってしまう。

その結果、これまで「社会参加」のために利用できていたサービスが、「日常生活の維持」の範囲に縮小されたり、全く利用できなくなったりする事態が発生するのです。

第2章:「65歳の壁」― 突然、生活が奪われる理不尽

では、具体的に65歳になると何が起きるのでしょうか。当事者が直面する困難は、主に四つに集約されます。

1. サービスの内容・量が大幅に減少する

これが最も深刻な問題です。特に、重度の障害がある人にとって、障害者総合支援法のサービスは命綱です。

厚生労働省は「介護保険サービスに相当するものがない障害福祉サービス固有のもの(同行援護、行動援護、自立訓練、就労支援等)は、引き続き利用可能」という見解を示しています。しかし、問題は日常生活の根幹を支える訪問系のサービスです。

代表的な例が「重度訪問介護」です。

前述の通り、これは24時間体制で、身体介護から外出支援までを一体的に提供するサービスです。このおかげで、人工呼吸器をつけたALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者さんや、脊髄損傷で全身が動かない人が、施設ではなく自宅で、時には仕事をしながら、主体的に生きることができています。

しかし、65歳になり介護保険に移行すると、この「重度訪問介護」に相当するサービスが存在しません。代わりに提供されるのは、介護保険の「訪問介護」です。訪問介護は、基本的に「身体介護」「生活援助」といった行為ごとに時間が区切られています。24時間一体的な支援という概念はなく、支給される時間も要介護認定によって上限が定められており、多くのケースで重度訪問介護で受けていた時間数には到底及びません。

例えば、これまで月に600時間の重度訪問介護を利用して、日中は仕事をし、夜間も喀痰吸引(かくたんきゅういん)などのケアを受けながら在宅生活を送っていた人が、介護保険に移行した途端、利用できる時間が200時間に激減してしまう、ということが現実に起こり得ます。

残りの400時間はどうなるのか?

家族が介護するしかありません。しかし、24時間のケアを家族だけで担うのは、物理的にも精神的にも不可能です。結果として、在宅での生活を諦め、施設への入所を選択せざるを得ない状況に追い込まれてしまうのです。これまで社会の一員として築いてきたキャリアも、人間関係も、すべてを失うことになりかねません。

2. 自己負担額が跳ね上がる

二つ目の問題は、お金の問題です。

障害者総合支援法の利用者負担は、所得に応じた「応能負担」です。住民税非課税世帯は無料、課税世帯でも月額の上限が定められています(一般1で9,300円、一般2で37,200円)。どれだけ多くのサービスを使っても、負担額はこの上限を超えることはありません。

一方、介護保険は、かかったサービス費用の1割(所得により2~3割)を負担する「応益負担」です。こちらにも月額の上限(高額介護サービス費)はありますが、その基準は障害福祉サービスとは異なります。

多くのケースで、介護保険に移行することで自己負担額が増加します。特に、長時間のサービスを必要とする重度障害者の場合、その負担増は深刻です。

例えば、先の例のように、重度訪問介護を利用していた人が、介護保険サービスと、不足分を補うための障害福祉サービスの上乗せ利用(後述)をした場合、それぞれの制度で負担上限額を支払うことになり、結果的に以前の何倍もの負担額になることがあります。

生活保護基準で暮らす低所得の障害者にとって、月々数千円、数万円の負担増は、生活そのものを脅かす死活問題です。

3. 長年連れ添ったヘルパーや事業所と離れ離れに

支援は、「誰が」行うかが非常に重要です。特に、コミュニケーションに障害があったり、複雑な医療的ケアが必要だったりする場合、長年の付き合いで築き上げたヘルパーとの信頼関係は、何物にも代えがたい財産です。

しかし、65歳になり介護保険に移行すると、この関係が断ち切られてしまうことがあります。

なぜなら、障害福祉サービスを提供している事業所が、必ずしも介護保険の指定事業者であるとは限らないからです。逆もまた然りです。

当事者にとっては、同じ法人、同じ事業所であっても、制度が違うというだけで、これまで来てくれていたヘルパーが来られなくなり、全く知らない介護保険のヘルパーに一から自分の身体のこと、生活のこと、コミュニケーションの取り方を説明し直さなければならない、という事態が生じます。

これは、単なる「担当者変更」ではありません。自分の命と尊厳を預ける相手が、突然、見知らぬ人に代わるという、計り知れないストレスと不安を伴うのです。

4. 「自立と社会参加」から「介護とお世話」へ

最後に、目には見えにくいですが、最も根源的な問題があります。それは、法律の理念の違いがもたらす、支援の質の変化です。

障害者総合支援法が目指すのは、本人の意思決定を尊重し、社会参加を促す「自立支援」です。ヘルパーは、本人が主体的に生活を営むための「パートナー」であり、時には黒子となって、その人の活動を支えます。

一方、介護保険は、どうしても「お世話をする」という「介護」の側面が強くなります。もちろん、介護保険も自立支援を理念に掲げていますが、制度設計上、身体的なケアや身の回りの援助が中心となりがちです。

例えば、障害者総合支援法の「同行援護」を使えば、視覚障害のある人が美術館に行って、ヘルパーに絵の解説をしてもらいながら鑑賞を楽しむことができます。これは、文化的な活動への「社会参加」です。しかし、介護保険の訪問介護では、このような利用は基本的に想定されていません。「生活に必須ではない」と判断されることが多いからです。

このように、支援の根拠となる法律が変わることで、当事者の生活は、「主体的に社会と関わる生活」から、「身の回りの世話をしてもらう生活」へと、その質が変えられてしまう危険性があるのです。これは、人の尊厳を深く傷つける問題です。

第3章:狭間で生きる人々の声(ケーススタディ)

ここで、制度の狭間で実際に苦しんでいる人々の、具体的なケースをいくつかご紹介します。(※プライバシーに配慮し、複数の事例を基に再構成しています)

ケース1:Aさん(60代・ALS)―「家で生き続けたい」という願い

Aさんは、50代でALS(筋萎縮性側索硬化症)と診断されました。病気の進行は速く、数年のうちに手足が動かなくなり、人工呼吸器を装着して生活しています。Aさんは、発症前は大学で教鞭をとっており、発症後も執筆活動やオンラインでの講演を続けていました。

それを可能にしていたのが、障害者総合支援法の「重度訪問介護」です。24時間体制でヘルパーが交代で支援に入り、体位交換や喀痰吸引、パソコンの代筆入力、そして講演会への同行など、Aさんの「生きたいように生きる」を支えてきました。月に利用する時間は700時間を超えます。自己負担は、所得に応じた上限額の37,200円でした。

しかし、65歳の誕生日が近づくにつれ、市役所の担当者から「介護保険への移行」を促されるようになりました。ケアマネジャーが作成した介護保険のプランでは、利用できる時間は多く見積もっても月300時間程度。夜間の見守りや、日中の細切れなケアの時間は含まれていません。「残りの時間は、ご家族で」と言われ、Aさんと妻は絶望しました。

「これでは、在宅生活は無理だ。執筆活動も続けられない。ただベッドの上で、時々ケアを受けながら生きるだけになってしまう。それは、私にとって生きているとは言えない」

Aさんは、これまで障害者運動の仲間たちと「障害があっても地域で当たり前に暮らす権利」を訴えてきました。しかし、今、自分自身がその権利を「年齢」という壁によって奪われようとしています。Aさんは現在、自治体に対して、介護保険ではなく重度訪問介護の利用を継続できるよう、交渉を続けています。その闘いは、彼自身の尊厳を守るための闘いであると同時に、後に続く多くの障害者のための闘いでもあります。

ケース2:Bさん(60代・知的障害/身体障害)― 失われた「いつもの毎日」

Bさんは、生まれつき知的障害と身体障害があり、長年、実家で両親と暮らしてきました。両親が高齢になり、介護が難しくなったため、10年前にグループホームに入居。平日は障害者総合支援法の「生活介護」サービスを利用して作業所に通い、休日は「居宅介護」のヘルパーさんと一緒に買い物に出かけたり、散歩したりするのが日課でした。

Bさんは言葉でのコミュニケーションが苦手ですが、長年付き合ってきたヘルパーさんとは、表情や簡単な単語で意思の疎通ができていました。そのヘルパーさんがいるから、Bさんは安心して外出し、自分の好きなものを選び、ささやかな楽しみのある生活を送ることができていました。

しかし、Bさんが65歳になると、状況は一変します。介護保険が優先適用となり、これまで利用していた障害福祉サービスの事業所が介護保険の指定を受けていなかったため、ヘルパーさんが来られなくなってしまいました。

代わりにやってきたのは、介護保険の事業所に所属する、見知らぬヘルパーさんでした。悪気はないのでしょうが、Bさんのことを知らないため、一つ一つの行動に時間がかかり、Bさんが何をしてほしいのかをなかなか理解してくれません。Bさんは混乱し、不安からパニックを起こすことも増えました。大好きだった外出も嫌がるようになり、部屋に閉じこもりがちになってしまいました。

作業所に通う「生活介護」は継続できましたが、生活の基盤である休日の楽しみと安心感が失われたことで、Bさんの生活の質は著しく低下してしまいました。制度の都合で、長年かけて築いてきた「いつもの毎日」と「信頼できる人」が、あっけなく奪われてしまったのです。

第4章:なぜ、こんな問題が放置されるのか?

これほど理不尽な問題が、なぜ解決されないままなのでしょうか。その背景には、日本の社会保障制度が抱える、根深い構造的な問題があります。

1. 縦割り行政の弊害

最大の原因は、国の「縦割り行政」です。障害者福祉は厚生労働省の「障害保健福祉部」、高齢者福祉(介護保険)は「老健局」が所管しています。それぞれが異なる法律、異なる財源、異なる理念に基づいて制度を運営しており、両者の間にスムーズな連携が取れていないのです。

障害者総合支援法の財源は、国と都道府県、市町村の公費(税金)と、利用者の自己負担で賄われています。

一方、介護保険の財源は、40歳以上の国民が支払う保険料が約半分、残りの半分が公費(税金)と利用者の自己負担です。

財源が異なるため、自治体にとっては、障害のある住民が65歳になると、障害福祉の予算から介護保険の予算へと「支出元」が変わることになります。障害福祉の予算を抑制したいというインセンティブが働く可能性も、ゼロとは言い切れません。

当事者の生活実態やニーズではなく、制度の都合や予算の都合が優先されてしまう。これが、縦割り行政がもたらす最大の弊害です。

2. 「年齢」という画一的な線引きの不合理

そもそも、「65歳」という年齢で、一律に制度を切り替えることに合理的な理由はあるのでしょうか。

ALSという病気が、65歳になったからといって治るわけではありません。知的障害や精神障害の特性が、65歳になったからといって変化するわけでもありません。むしろ、加齢に伴い、障害がより重度化したり、新たな病気を併発したりすることも少なくありません。

それにもかかわらず、「65歳になったから、あなたは今日から高齢者です。だから介護保険を使ってください」というのは、あまりにも乱暴な論理です。その人の障害の特性や、これまで送ってきた生活の継続性を無視した、エイジズム(年齢差別)そのものであるという厳しい批判もあります。

障害の有無にかかわらず、誰もが歳をとります。障害のある高齢者、高齢になってから障害を負う人など、そのあり方は多様です。個々の状態やニーズに目を向けず、「障害者」「高齢者」というカテゴリに押し込め、年齢だけで利用できる制度を限定することは、個人の尊厳を深く損なう行為と言わざるを得ません。

第5章:解決への道筋と、私たちにできること

この絶望的な状況に対して、国も全く手をこまねいてきたわけではありません。しかし、その対応は、根本的な解決には程遠いのが現状です。

国の動きと、残された課題

当事者団体などからの強い要望を受け、国はこれまで何度か制度の見直しを行ってきました。

現在の制度では、介護保険のサービスだけでは、障害福祉サービス利用時に受けていた支援に比べて著しく支援量が低下してしまうような場合に限り、市町村の判断で、介護保険に加えて障害福祉サービスを上乗せして利用できる「横出し」や、介護保険にはない障害福祉固有のサービス(同行援護など)を利用することが認められています。

また、2018年の障害者総合支援法改正では、一定の条件を満たす65歳以上の障害者について、本人の希望に基づき、使い慣れた事業所による支援が継続できるよう、介護保険ではなく、障害福祉サービスを優先して利用できる仕組みが検討されましたが、最終的には限定的な適用に留まっています。

これらの改善策は、一歩前進ではあります。しかし、「市町村の判断」に委ねられているため、どの地域に住んでいるかによって受けられる支援に差が生まれる「自治体間格差」という新たな問題を生んでいます。ある市では認められる上乗せ利用が、隣の市では認められない、ということが現実に起きているのです。

これらは、あくまでも既存の制度の歪みを補修するための「応急処置」に過ぎません。問題の根本にある「65歳になったら原則介護保険」という大原則が変わらない限り、当事者の苦しみは続きます。

当事者たちの闘いと、求められる抜本的改革

この理不尽な壁を打ち破るため、多くの当事者や支援者が声を上げ、行動を起こしてきました。

自治体との交渉、厚生労働省への要請活動、そして司法の場で「生存権を脅かすものだ」として、国や自治体を相手取った訴訟も複数起きています。

彼らが求めているのは、小手先の修正ではありません。

最も望ましい解決策として多くの当事者が求めているのは、**「制度の選択制」**の導入です。

つまり、障害のある人が65歳になった際に、本人の意思と必要性に基づき、障害者総合支援法を使い続けるか、介護保険法に移行するかを、自分で選択できるようにすることです。

その人の障害の特性や生活の実態を最もよく知るのは、行政の担当者ではなく、本人自身です。自己決定の尊重という障害者権利条約の理念にも合致する、最も合理的で人間的な解決策と言えるでしょう。

この記事を読んでいる、あなたにできること

「自分は障害者じゃないし、家族にもいないから関係ない」

そう思った方もいるかもしれません。しかし、考えてみてください。病気や事故は、いつ誰の身に降りかかるか分かりません。そして、誰もが必ず歳をとります。

この「65歳の壁」問題は、私たちの社会が、「老い」や「障害」とどう向き合うのか、という価値観を問うています。効率や制度の都合を優先し、個人の尊厳や生き方を切り捨ててしまう社会で良いのか。それとも、一人ひとりが、年齢や障害の有無にかかわらず、最期まで自分らしく生きられる社会を目指すのか。

私たち一人ひとりにできることは、決して小さくありません。

  1. 知ること、関心を持つこと: まずは、この問題の存在を知ってください。この記事を読んでくださったあなたは、すでにはじめの一歩を踏み出しています。
  2. 声を届けること: あなたの住む自治体の議員や、国会議員に、この問題についてどう考えているか問いかけてみてください。SNSでこの記事をシェアしたり、自分の言葉で意見を発信したりすることも、大きな力になります。世論が高まれば、政治は必ず動きます。
  3. 想像すること: もし、自分の親が、パートナーが、そして自分自身が、AさんやBさんと同じ立場になったら、と想像してみてください。その時、社会にどうあってほしいですか?

おわりに:誰もが「自分の人生」を生きられる社会へ

「65歳の壁」は、単なる二つの法律の間の技術的な問題ではありません。それは、私たちの社会が、一人ひとりの人間を、その人自身の「人生の主人公」として尊重できているかどうかを映し出す、鏡のような問題です。

障害があっても、歳をとっても、誰もが住み慣れた場所で、愛する人たちと共に、そして何より「自分らしく」生きる権利を持っています。その当たり前の権利が、法律の条文や制度の都合で脅かされることがあってはなりません。

年齢という一本の線で人生を分断するのではなく、一人ひとりの人生の物語が、途切れることなく続いていく。そんな社会を実現するために、今こそ、私たち一人ひとりの声が必要です。

あなたの関心が、理不尽な壁に風穴を開ける、最初の一撃になるかもしれません。

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