第1章:「スティグマ」とは何か?——単なる「偏見」との違い
まず、「スティグマ」という言葉の核心に迫りましょう。
この言葉は、古代ギリシャ語に由来します。当時、「スティグマ」とは、奴隷や犯罪者、裏切り者の体に押された「烙印(らくいん)」や「焼き印」を意味していました。それは、「この人物は社会的に劣っており、汚れており、避けるべき存在である」ということを示す、消えない「しるし」だったのです。
この言葉を現代の社会問題として定義し直したのが、伝説的な社会学者アーヴィング・ゴッフマンです。彼は1963年の著書『スティグマの社会学(原題: Stigma: Notes on the Management of Spoiled Identity)』の中で、スティグマを「望ましくない違い(undesired differentness)」によって、その人の社会的なアイデンティティ(人となり)が「汚されてしまう(spoiled)」ことだと述べました。
少し難しいですね。簡単に言えば、こういうことです。
スティグマとは、「ある特定の違い(特徴)」が、その人の「人間性全体」を否定するネガティブな「しるし」として機能してしまう社会的な現象です。
「偏見(Prejudice)」は、多くの場合、個人の「考え」や「感情」(例:「〇〇な人は嫌いだ」)を指します。
「差別(Discrimination)」は、その偏見に基づいた「行動」(例:「〇〇な人は採用しない」)を指します。
では、「スティグマ」は?
スティグマは、その偏見と差別を生み出す、より根本的な「社会の仕組み」であり、「烙印を押すプロセスそのもの」を指します。
ゴッフマンは、スティグマの対象となる「しるし」を大きく3つに分類しました。
- 身体的な特徴:(例:身体障害、目に見える病気の兆候、肥満など)
- 個人の性格や経歴上の特徴:(例:精神疾患、薬物依存症、犯罪歴、失業、特定の性的指向など)
- 集団的な特徴(所属):(例:人種、民族、宗教、国籍、貧困層であることなど)
重要なのは、これらの特徴が「それ自体で悪い」わけではない、ということです。例えば、「左利きであること」は、かつて多くの社会でスティグマの対象でした。「矯正」させられ、不吉なものとさえ見なされました。しかし今、多くの社会でそれは単なる「個性」です。
つまり、何がスティグマになるかは、その社会の「当たり前(規範)」や「権力構造」によって決まるのです。スティグマは、その「しるし」自体に問題があるのではなく、社会がその「しるし」にネガティブな意味を貼り付けた結果、生まれるものなのです。
第2章:スティグマは「どうやって」生まれるのか?——5つのステップ
では、どうして特定の特徴が「烙印」になってしまうのでしょうか。社会学者のブルース・リンクとジョー・フェランは、2001年の影響力のある論文で、スティグマが生まれるには5つの要素が連動した「社会的プロセス」が必要だと提唱しました。
このプロセスを理解することは、スティグマ対策を考える上で非常に重要です。
ステップ1:ラベリング(Labelling)
まず、社会が人間の「違い」に気づき、それに「名前(ラベル)」を貼ります。
(例:「あの人はうつ病だ」「あの人は移民だ」「あの人は太っている」)
この段階では、まだ良い・悪いの判断は強くありません。単なる「分類」です。
ステップ2:ステレオタイプ化(Stereotyping)
次に、その「ラベル」に対して、社会が共有する「ネガティブな思い込み(ステレオタイプ)」を結びつけます。
(例:「うつ病の人は、意志が弱い」)
(例:「移民は、治安を悪化させる」)
(例:「太っている人は、自己管理ができない怠惰な人だ」)
これらはもちろん事実ではありませんが、社会通念として広まります。
ステップ3:分離(Separation)
ネガティブな思い込みが定着すると、社会は「私たち(普通の人々)」と「彼ら(ラベルを貼られた人々)」という境界線を引き、両者を「分離」します。
(例:「意志が弱い『彼ら』は、『私たち』とは違う存在だ」)
この「Us vs. Them(私たち 対 彼ら)」という思考が、スティグマの核となります。
ステップ4:地位の喪失と差別(Status Loss and Discrimination)
「彼ら」は「私たち」よりも劣った存在だと見なされることで、社会的な地位を失います。そして、その地位の喪失が、具体的な「差別」を正当化します。
(例:「意志が弱い人間に、重要な仕事は任せられない」→ 雇用差別)
(例:「怠惰な人が住むと、近所の評判が下がる」→ 住居差別)
ステップ5:力の不均衡(The Role of Power)
これが最も重要なステップです。上記のプロセスが成立するためには、ラベルを貼る側(社会の多数派・権力側)が、貼られる側よりも「力(社会的・経済的・政治的な力)」を持っている必要があります。
例えば、「コーヒーを毎日飲む人」というラベルは存在しますが、それがスティグマにはなりません。なぜなら、コーヒーを飲む人々は社会的に強力な集団であり、「コーヒーを飲まない人々」が彼らを差別する力を持っていないからです。
しかし、社会的に弱い立場にある人々(例:貧困層、少数民族、精神疾患を持つ人々)に貼られたラベルは、権力を持つ多数派によって、容易にスティグマへと転化させられます。
スティグマとは、単なる個人の無知や意地悪さではなく、「権力の差」を背景にした、体系的(システマティック)な社会プロセスなのです。
第3章:スティグマの3つの「顔」とその深刻な影響
スティグマは、私たちの社会生活の様々な側面に現れます。研究者たちは、スティグマが作用するレベルを大きく3つに分類しています。これを知ることで、私たちが日々直面している問題の解像度が上がります。
1. パブリック・スティグマ(Public Stigma:社会のスティグマ)
これは、社会の大多数が、ある集団に対して抱いているステレオタイプや偏見のことです。いわゆる「世間の目」や「社会通念」です。
(例:「精神疾患の人は、何を考えているか分からず危険だ」という社会の一般的な思い込み)
メディアによるセンセーショナルな報道などが、このパブリック・スティグマを強化することがあります。
2. セルフ・スティグマ(Self-Stigma:自己スティグマ)
これは、スティグマの最も悲劇的で強力な側面の一つです。
スティグマにさらされた当事者が、社会に存在するネガティブなステレオタイプ(パブリック・スティグマ)を自分自身に取り込み、内面化してしまうことです。
(例:うつ病になった人が、「自分はうつ病だから、意志が弱くてダメな人間なんだ」と本気で信じ込んでしまうこと)
社会の「烙印」を、自分で自分の心に押してしまうのです。
3. ストラクチュラル・スティグマ(Structural Stigma:構造的スティグマ)
これは、個人の意識レベルではなく、社会の「仕組み」や「制度」そのものに組み込まれたスティグマです。法律、政策、組織のルール、リソースの配分などが、特定の集団を意図的あるいは非意図的に不利な立場に追いやることを指します。(※これは非常に重要なので、次の章で詳しく解説します)
【深刻な影響:スティグマが奪うもの】
これらのスティグマが連動することで、個人と社会に壊滅的な影響が及びます。
影響1:助けを求めなくなる(受療行動の阻害)
これが最も致命的な影響の一つです。
病気や困難を抱えていても、「うつ病だと診断されたら、もうまともな人間として見てもらえない」「HIVの検査で陽性だと知られたら、人生が終わる」というスティグマへの恐怖(パブリック・スティグマ)が、専門家への相談や治療の開始を遅らせます。
さらに、セルフ・スティグマ(「こんなことで助けを求める自分は弱い」)が、その決断を一層鈍らせます。
世界保健機関(WHO)も、精神疾患の治療における最大の障壁の一つが「スティグマ」であると繰り返し指摘しています。病気そのものよりも、病気に対する「スティグマ」が、回復のチャンスを奪っているのです。
影響2:健康格差の拡大(心身への直接的ダメージ)
スティグマは、単なる「気分の問題」ではありません。それは文字通り、人の「健康」を蝕みます。
「マイノリティ・ストレス理論」というものがあります。これは、スティグマの対象となる人々(例:人種的マイノリティ、性的マイノリティなど)が、差別や偏見という慢性的な社会的ストレスにさらされ続けることで、心身の健康を害するという理論です。
差別的な扱いを受けると、私たちの体はストレスホルモン(コルチゾールなど)を分泌します。これが日常的に繰り返されると、体は常に「臨戦態勢」となり、心血管系、免疫系、代謝系に異常をきたします。結果として、高血圧、心臓病、糖尿病、そしてうつ病や不安障害のリスクが、スティグマにさらされていない人々と比較して有意に高まることが、多くの医学的研究(公衆衛生学)で示されています。
スティグマは、社会的に弱い立場の人々を、生物学的なレベルでも弱らせてしまうのです。
影響3:社会的・経済的な機会の剥奪
スティグマは、人生のあらゆる機会を奪います。
(例:精神疾患の既往歴があるだけで、就職試験で不利になる)
(例:特定の出身地であるだけで、アパートの入居を断られる)
(例:貧困家庭の出身であることで、教育の機会が制限される)
これにより、当事者は社会的に孤立し、経済的にも困窮しやすくなります。そして、その困窮がさらなるスティグマ(「貧しいのは本人の努力が足りないからだ」)を生むという、負のスパイラルに陥ります。
第4章:真の敵は「空気」——構造的スティグマという見えないシステム
さて、ここまでの話で「個人の偏見が問題なんだな」と思われたかもしれません。しかし、近年のスティグマ研究において最も重要視されているのは、個人の心の中にある偏見よりも、もっと大きく、もっと見えにくい「敵」です。
それが、第3章で少し触れた**「構造的スティグマ(Structural Stigma)」**です。
これは、コロンビア大学のマーク・ハッツェンビューラー(Mark Hatzenbuehler)教授らの研究によって、その重要性が広く認識されるようになりました。
構造的スティグマとは、「社会のルール、法律、制度、政策、そしてリソース(予算や人材)の配分」に、特定の集団に対するネガティブな価値観が組み込まれ、常態化していることを指します。
これは「空気」のようなものです。私たちは普段それを意識しませんが、それは確実に存在し、私たちの行動を規定しています。
具体的な例を挙げましょう。
例1:法律や政策によるスティグマ
歴史を振り返れば、特定の集団を差別する法律は無数にありました(例:アパルトヘイト、特定の人種の結婚を禁じる法律など)。
現代でも、例えば、国によって同性間のパートナーシップを法的に認めない、あるいは犯罪とする法律が存在します。こうした法律は、「あなたたちの関係は、異性間の関係よりも劣ったものである」という社会的なメッセージ(スティグマ)を「公的に」宣言していることになります。
ハッツェンビューラーらの衝撃的な研究では、アメリカにおいて、性的マイノリティに対する差別的な法律(構造的スティグマ)が施行されている州では、そうでない州に比べて、性的マイノリティの人々の精神疾患の有病率や、さらには「死亡率」までが有意に高いことが示されています。法律という「構造」が、人々の命を縮めているのです。
例2:リソース配分の不均衡
これは非常に分かりやすい例です。「身体の健康」と「心の健康」を比べてみてください。
多くの国で、がんや心臓病の研究・治療に投じられる国家予算や医療リソースに比べ、精神疾患の研究・治療に投じられる予算は、その患者数や社会的な損失の大きさに比して、著しく少ないのが現状です。
これはなぜでしょうか?
「心の病気は、体の病気よりも『一段低い』ものだ」「個人の気合の問題だ」という社会的なスティグマ(価値観)が、国の予算配分という「構造」に反映されているからです。
例3:メディアの慣習
メディアが事件を報道する際、容疑者が精神科への通院歴を持っていた場合、それを事件とは直接関係がなくてもセンセーショナルに報道する慣習があります。
これは、「精神疾患=危険」というパブリック・スティグマを再生産し、強化する「構造」の一部となっています。
構造的スティグマの恐ろしさ
構造的スティグマが最も恐ろしいのは、それが「当たり前」になっていて、誰も悪意を持っているように見えない点です。
「昔からこのルールなので」「予算がないので」「みんなそうしているから」——。
個人の差別的な言動は「あの人は悪い人だ」と非難しやすいですが、制度や法律に組み込まれたスティグマは、個人の「悪意」を必要としません。それは自動的に、淡々と、特定の集団を不利な状況に追いやり続けます。
私たちが本当に戦うべき相手は、特定の「差別主義者」というよりも、この「差別を自動的に生み出す社会システム」そのものなのかもしれません。
第5章:私たちに何ができるのか?——スティグマを解体する5つのアクション
ここまで、スティグマがいかに強力で、根深い社会問題であるかを見てきました。では、私たちはこの見えない壁を前に、無力なのでしょうか?
決してそんなことはありません。スティグマは社会が「作り上げた」ものである以上、社会が「解体する」ことも可能です。近年の研究は、スティグマを減らすために有効な方法を具体的に示しています。
私たち一人ひとりが今日からできる、エビデンスに基づいた5つのアクションを紹介します。
アクション1:言葉を意識し、変える(Language Matters)
言葉は、私たちの現実認識を作ります。スティグマは言葉に宿ります。
例えば、「(病名)患者」や「(障害)者」という呼び方(例:「精神病患者」「障害者」)は、その人のアイデンティティが「病気」や「障害」そのものであるかのような印象を与えます。
これを、「(病名)のある人」「(障害)のある人」(Person-First Language:人を第一に考える言葉)に変えることが推奨されています。(例:「精神疾患のある人」「障害のある人」)
「彼は『統合失調症』だ」ではなく、「彼は『統合失調症という診断名を持っている』人だ」。
これは単なる言葉遊びではありません。「病気」や「障害」は、その人の一部分ではあっても、その人の全てではない、という当たり前の事実を確認する作業です。
また、「うつは甘え」「自殺する勇気があるなら」といった、スティグマを強化する言葉を意識的に使わないことも重要です。
アクション2:事実を知り、教育する(Education)
スティグマの多くは、誤解や神話に基づいています。
(誤解:「精神疾患のある人は暴力的で危険だ」)
(事実:研究によれば、精神疾患のある人が他者に対して暴力を振るうリスクは、一般人口と比べて非常に低いか、同等です。むしろ、彼らは社会からの偏見や暴力の「被害者」になるリスクの方が何倍も高いことが示されています。)
こうした「事実」を、私たち自身がまず学ぶこと。そして、家族や友人が誤解に基づいた発言をしていたら、それを感情的に非難するのではなく、「実は、研究ではこう言われているんだよ」と冷静に事実を共有すること(教育)が、パブリック・スティグマを減らす上で有効です。
アクション3:「接触」する(Contact)
スティグマ解消法として、**現在最も効果が高いと科学的に支持されているのが「接触(コンタクト)理論」**です。これは、社会心理学者のゴードン・オールポートが提唱したもので、「異なる集団の人々が直接会って交流すること」が、偏見を減らす上で極めて有効であるという理論です。
スティグマの対象となっている当事者が、自分たちの経験や人生を、ありのままに語ること。そして、私たちがその物語に「触れる」こと。
(例:「統合失調症のあるAさんが、病気と付き合いながら、私たちと同じように働き、悩み、趣味を楽しんでいる姿」を直接知ること)
こうした「生身の接触」は、「精神疾患=危険」というステレオタイプを根本から覆す力を持っています。
直接会うのが難しくても、当事者が自分の言葉で語る手記を読んだり、動画を見たりすること(間接的接触、パラソーシャル接触)でも、同様の効果があることが分かっています。
アクション4:声を上げる(Protest and Advocacy)
スティグマを強化する構造や言動に対しては、「それはおかしい」と声を上げることが重要です。
(例:テレビ番組が精神疾患について差別的な表現を使っていたら、放送局に意見を送る)
(例:職場で差別的な冗談が言われていたら、それに同調せず、「その言い方は問題だ」と指摘する)
また、スティグマの解消に取り組むNPOや当事者団体を支援(寄付やボランティア)することも、構造的スティグマに立ち向かうための強力なアクションです。
アクション5:自分自身を振り返る(Self-Reflection)
これが最も難しく、最も重要かもしれません。
私たちは誰でも、意識的か無意識的かにかかわらず、何らかの偏見(バイアス)を持っています。
「私は差別なんてしない」と強く思っている人ほど、自分の内面にある「無意識のバイアス」に気づきにくいものです。
「自分は、落ち込んでいる同僚を見て、『もっと頑張れよ』と心の中で思っていないだろうか?」
「自分は、ホームレスの人を見て、『自業自得だ』と無意識に判断していないだろうか?」
自分の中にある「普通」の基準を疑い、自分の内面にある「小さなスティグマ」に気づき、それを修正しようと努めること。その自己反省こそが、社会を変える第一歩となります。
結論:見えない壁の向こう側へ
スティグマとは、社会が「普通」と「異常」の間に引いた、恣意的な境界線であり、その境界線によって「烙印」を押された人々から尊厳と機会を奪う、強力な社会システムです。
それは、個人の悪意から生まれるというよりも、社会の「構造」や「空気」として存在し、私たちを無意識のうちに差別や排除に加担させます。
そして、スティグマは、助けを求める声をかき消し、健康を蝕み、時に人の命さえ奪います。セルフ・スティグマは、その「烙印」を本人が自ら受け入れ、自分自身を攻撃する刃となります。
しかし、この記事で見てきたように、スティグマは不変のものではありません。
私たちがその仕組みを理解し、言葉を変え、事実を学び、当事者の物語に触れ、そして何よりも自分自身の内面を見つめ直すことで、その見えない壁には、確実にヒビを入れることができます。
スティグマのない社会とは、誰もが「違う」ことを恐れずに済み、弱さや困難を隠す必要がなく、必要な時に「助けて」と言える社会です。
それは遠い理想郷に見えるかもしれません。しかし、その社会への第一歩は、今、この記事を読み終えたあなたが、「スティグマ」という言葉を知り、その問題の重大さに気づいた、まさにその瞬間から始まっています。
あなたのその認識こそが、見えない壁を壊す最も力強いハンマーになるのです。


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