あなたは今、この記事を読むために意識を集中させています。では、読み終えて一息つき、コーヒーカップを片手に窓の外をぼんやりと眺めている時、あなたの脳は何をしていると思いますか?
「休んでいる」「何も考えていない」
そう思うかもしれません。しかし、脳科学の世界では、この「何もしない時間」こそが、脳にとって非常に重要かつ活発な時間であることがわかっています。
車が停止していてもエンジンがかかり続けている「アイドリング」状態のように、私たちの脳にも、特定の作業に集中していない時に活動する「ベースライン」となる神経回路網が存在します。
それが、この記事のテーマである**「デフォルト・モード・ネットワーク(DMN=Default Mode Network)」**です。
このDMN、実はあなたの「自分らしさ」を形作る中核でありながら、使い方を誤ると「脳疲労」や「心の不調」の最大の原因にもなる、非常にパワフルで二面性を持ったシステムなのです。
この記事では、DMNとは一体何なのか、私たちの日常や健康にどう関わっているのか、そして最新の研究で何がわかってきたのかを、具体的なケーススタディを交えながら、誰にでもわかる言葉で解き明かしていきます。
第1章:「何もしない」が最も忙しい? DMNの発見
DMNの存在が科学的に広く認知されるようになったのは、2000年代初頭のこと。ワシントン大学の神経科学者、マーカス・ライクル博士らの研究がきっかけでした。
研究者たちは当時、fMRI(機能的磁気共鳴画像法)という機械を使い、人々が特定の課題(計算や記憶など)を行っている時の脳活動をスキャンしていました。彼らは、課題を行っている時の脳活動から、「何もしていない安静時」の脳活動を「引き算」することで、課題に特有の脳活動を特定しようとしました。
ところが、奇妙なことが起こります。「引き算」するはずの「安静時」の脳が、特定の課題をしている時よりも、はるかに活発に活動している領域があることが判明したのです。
安静時に活動が「オン」になり、何かに集中すると活動が「オフ」になる。まるでそれが脳の「初期設定(デフォルト・モード)」であるかのように。
この発見は衝撃的でした。脳は、私たちが意識的に「使う」時だけ働くのではなく、私たちが「ぼんやり」している時にこそ、最もエネルギーを消費する活動を行っていたのです。研究によれば、DMNの活動は、脳全体のエネルギー消費の**60%から80%**を占めるとも言われています。
私たちが「心がここにあらず」の状態、いわゆる**「マインド・ワンダリング(心の放浪)」**をしている時、DMNはフル稼働しているのです。
第2章:DMNの仕事とは?「私」を創り出す脳内工場
では、脳のエネルギーをそれほど大量に消費してまで、DMNは一体何をしているのでしょうか。
DMNが活動する時、私たちの脳内では主に以下の4つの高度な精神活動が行われています。
1. 自己認識(自分について考える)
「私はどういう人間だろうか」「あの時、自分はどう感じたか」。DMNは、自分自身の性格、感情、身体感覚を認識し、「私」という感覚を維持するための中核的な役割を担っています。
2. 自伝的記憶(過去を思い出す)
「昨日の夕食は何だったか」といった単純な記憶ではなく、「子どもの頃、夏祭りに行った楽しい思い出」といった、自分自身の経験に基づいた過去の記憶(自伝的記憶)を引き出す作業です。
3. 未来の計画(未来を想像する)
「来週のプレゼンはどう進めようか」「老後はどこに住もうか」。過去の記憶や経験という「材料」を使い、未来の出来事をシミュレーションし、計画を立てます。
4. 他者の視点(他者の心を推測する)
「あの人は今、何を考えているだろうか」「上司はなぜあんな言い方をしたのだろう」。自分自身の経験を基に、他者の感情や意図を推測する、いわゆる「心の理論」や「共感」と呼ばれる能力です。
お気づきでしょうか。DMNが担うこれら4つの仕事は、すべて「自分」という軸を必要とします。
DMNとは、「過去の自分(記憶)」と「現在の自分(自己認識)」を統合し、「未来の自分(計画)」をシミュレートし、そして「他者と関わる自分(共感)」を形作る、まさに「自己参照プロセス」の司令塔なのです。
第3章:【ケーススタディ①】 シャワー中の「ひらめき」とDMNの創造性
「アイデアは、リラックスしている時に降ってくる」
アインシュタインは相対性理論の着想をぼんやりと空想している時に得たと言いますし、ノーベル賞受賞者の山中伸弥教授も、重要な発見のヒントは実験中ではなく、シャワーを浴びている時やランニング中に閃いたと語っています。
なぜ、必死にデスクにかじりついている時ではなく、ぼんやりしている時に「ひらめき」は訪れるのでしょうか。
これがまさに、DMNの持つ「創造性」の側面です。
私たちの脳には、DMNの他にもう一つ、重要なネットワークがあります。それが**「中央実行ネットワーク(CEN=Central Executive Network)」**です。これは、私たちが何かに「集中」し、計画的に物事を実行し、論理的に考える時に働くネットワークです。
CENが「集中」してインプットした情報(知識、データ、経験)は、脳の様々な場所に保存されます。
そして、私たちがCENの活動をオフにし、「ぼんやり」とDMNに切り替えた瞬間、DMNは脳内に散らばったそれらの記憶や知識を、まるで磁石のように自由に引き寄せ、結びつけ始めます。
ケース:シャワー中のひらめき
あるプロジェクトで行き詰まっていたAさん。デスクでいくら考えても良い案が出ません。諦めて帰宅し、シャワーを浴びてリラックスしていました。その瞬間、全く関係ないと思っていた過去のプロジェクトの経験と、今朝読んだニュース記事が頭の中で突然結びつき、革新的な解決策が閃きました。
これは、DMNが「過去のプロジェクトの記憶」と「今朝のニュース」という一見無関係な情報を結びつけ、新しい「意味」や「アイデア」を生成した典型的な例です。DMNは、論理的なCENが見落としていた「点と点」を、無意識下で繋ぎ合わせてくれるのです。
第4章:【ケーススタディ②】 夜中に止まらない「ぐるぐる思考」とDMNの暴走
DMNは創造性の源泉であると同時に、諸刃の剣でもあります。もし、DMNが結びつける情報が、ポジティブなものではなく、ネガティブなものばかりだったらどうなるでしょうか。
これが、DMNの「負の側面」であり、多くの現代人が悩む「脳疲労」や「メンタルの不調」に直結します。
ケース:深夜の反芻(はんすう)思考
Bさんは、日中、上司に些細なミスを指摘されました。その場は謝って済みましたが、夜、布団に入るとDMNが活動を開始します。「なぜあんなミスをしたんだ」「私は本当にダメだ」「明日、会社に行きたくない」。
さらには、そのミスが引き金となり、「そういえば学生時代も似たような失敗をした」「きっと自分は誰からも評価されていない」と、過去のネガティブな記憶(自伝的記憶)が次々と掘り起こされ、数時間も「ぐるぐる思考」が止まらなくなってしまいました。
これは**「反芻思考(Ruminative thinking)」**と呼ばれる状態です。牛が一度食べた草を何度も胃に戻して反芻するように、過去のネガティブな出来事を何度も繰り返し思い出し、悩み続けてしまうのです。
この反芻思考の主犯こそが、**DMNの「過活動」**です。
近年の研究では、うつ病や不安障害の患者の脳では、このDMNが健常者と比べて過剰に活動していることが多く報告されています。DMNが暴走し、ネガティブな自己参照(自分はダメだ)と、ネガティブな過去の記憶を延々と結びつけ続け、脳を疲弊させてしまうのです。
「ぼんやりする時間」が、ネガティブな記憶を再生産するだけの時間になってしまうと、DMNは創造主から「暴君」へと姿を変えます。
第5章:集中できない脳の正体。「DMN」と「CEN」のシーソーゲーム
第3章で、集中を司る「中央実行ネットワーク(CEN)」が登場しました。実は、このCENとDMNは、脳内で**「シーソー」のような関係**にあります。
原則として、DMNが活発な時、CENは活動を抑えられます。
逆に、CENが活発な時(集中している時)、DMNは活動を抑えられます。
このバランスが取れている状態が、健康な脳です。
集中すべき時(仕事、勉強)はCENが働き、リラックスする時(入浴、散歩)はDMNが働いて記憶を整理し、創造性を発揮する。
しかし、現代社会は情報過多です。スマートフォンには通知が絶え間なく届き、常にマルチタスクを求められます。
その結果、本来「集中」すべき場面でCENが働こうとしても、DMNが静まってくれない(=スマホの通知が気になったり、別の心配事が頭をよぎったりする)状態が起こります。
また、本来「休む」べき時間になっても、DMNがネガティブな反芻思考を続け、脳がアイドリングどころか「空ぶかし」を続けてしまう(脳疲労)。
DMNが過活動のままだと、CENが働くための「スイッチ」がうまく入らないのです。これが「集中力が続かない」「なんだか頭がスッキリしない」という脳疲労の正体の一つです。
DMNは、脳のエネルギーの6〜8割を使う大食漢です。そのDMNが暴走し続ければ、脳がエネルギー切れを起こしてしまうのは当然と言えるでしょう。
第6章:【ケーススタディ③】 DMNの暴走を鎮める「マインドフルネス」
では、暴走しがちなDMNを、どうすればコントロールできるのでしょうか。その最も強力な手段の一つとして、近年科学的に注目されているのが**「マインドフルネス(瞑想)」**です。
ケース:瞑想による心の鎮静
Cさんは、日々のストレスと反芻思考に悩み、マインドフルネス瞑想を始めました。最初は数分間じっとしているだけでも雑念(DMNの活動)が湧き上がってきましたが、毎日続けるうちに、雑念が浮かんでも「あ、今、別のことを考えていた」と客観的に気づき、意識を「今、ここ」の呼吸に戻せるようになってきました。
マインドフルネスとは、雑念を無理に消そうとすることではありません。「過去の後悔」や「未来への不安」(=DMNの得意分野)にさまよいがちな意識を、意図的に「今、ここの瞬間」(例えば、自分の呼吸、足の裏の感覚など)に引き戻す訓練です。
fMRIを使った研究では、マインドフルネス瞑想を実践している時、脳内ではDMNの活動が鎮静化することが確認されています。
瞑想は、DMNの暴走に「ブレーキ」をかけるトレーニングなのです。
重要なのは、瞑想の熟練者になると、単にDMNの活動が抑えられるだけでなく、DMNとCENの「協調性」が高まる可能性が最新の研究で示唆されていることです。
つまり、必要ない時はDMNを静かにさせ、創造性が必要な時にはDMNを適切に働かせるといった、脳の「使い分け」が上手になるのです。DMNを黙らせるのではなく、「手なずける」感覚と言えるでしょう。
第7章:【ケーススタディ④】 DMNの異常と脳疾患—アルツハイマー病との関連
DMNの重要性は、メンタルの問題だけにとどまりません。脳の器質的な疾患、特にアルツハイマー病との関連が、近年強く指摘されています。
アルツハイマー病は、アミロイドβやタウといった異常なタンパク質が脳内に蓄積し、神経細胞が死滅していく病気です。
驚くべきことに、このアミロイドβが最初に蓄積し始める脳の領域と、DMNを構成する主要な領域(特に後部帯状回や楔前部)が、ほぼ一致することがわかってきました。
なぜ、常に活発に働いているDMNの領域に、ゴミが溜まりやすいのか。その明確な理由はまだ研究途上ですが、「最もよく使う(=最も代謝が激しい)場所だからこそ、老廃物も溜まりやすいのではないか」という仮説が立てられています。
ケース:アルツハイマー病の初期症状
Dさんは最近、物忘れ(記憶障害)だけでなく、「会話に集中できない」「注意力が散漫になった」と感じることが増えました。これは、DMNの機能が低下し始めたことで、DMNとCENの切り替えがうまくいかなくなった結果かもしれません。
最新の研究(2024年7月、東京大学などの研究グループによる)では、アルツハイマー病患者の脳では、DMNの神経活動が不安定化していることが確認されました。そして、このDMNの不安定さが、従来の「記憶障害」だけでなく、これまであまり解明されていなかった「注意障害」などの非記憶系の症状を引き起こしている可能性が示されました。
DMNは「自分らしさ」の中核です。そのDMNがダメージを受けることが、アルツハイマー病によって「その人らしさ」が失われていくプロセスと深く関わっていることは間違いありません。
第8章:最新研究が示すDMNの新たな顔
DMNの研究は日進月歩で進んでいます。かつては「ぼんやり脳」あるいは「反芻思考の原因」とややネガティブに見られがちだったDMNですが、最新の研究では、そのより高度でポジティブな側面が解明されつつあります。
1. DMNは「自己の物語」を紡ぐ
2025年に入ってからの研究(※検索結果3.1に基づく記述)では、DMNは単に過去を思い出すだけでなく、それらの記憶を編集し、「自分とはこういう人間である」という内的なナラティブ(物語)を構築する役割を担っている可能性が指摘されています。私たちはDMNの働きによって、バラバラの経験に意味づけを行い、「自分の人生」という一つのストーリーを紡いでいるのです。
2. 創造性には「DMNとCENの連携」が必要
かつてはシーソー関係(敵対関係)と捉えられていたDMNとCENですが、本当に高度な創造性を発揮するためには、この二つが「連携」することが重要だとわかってきました。
DMNが自由にアイデア(点)を生み出し、CENがそれを論理的に評価し、形(線)にする。この両方のネットワークがスムーズにバトンタッチできる脳こそが、真にクリエイティブな脳であると言えます。
3. DMNは「社会的認知」の基盤
DMNが「他者の心を推測する」機能を持つことは先に述べましたが、これは私たちの社会生活の基盤です。相手の立場に立って共感したり、複雑な人間関係をナビゲートしたりする能力は、DMNが「もし自分だったら」とシミュレーションする機能に支えられています。
DMNは、私たちが社会的な存在として生きていく上で、欠かすことのできないネットワークなのです。
第9章:暴走するDMNと上手に付き合い、「才能」に変える方法
さて、これまでの話をまとめると、DMNは「自分らしさ」「創造性」「共感力」の源泉であると同時に、「反芻思考」「脳疲労」「集中力の阻害」の原因にもなる、非常にパワフルな存在であることがお分かりいただけたと思います。
重要なのは、DMNを敵視するのではなく、その特性を理解し、上手に付き合っていくことです。
1. 「良質なぼんやり」を意図的に作る
DMNは、ぼんやりしている時に働きます。しかし、スマホを見ながらの「ぼんやり」は、脳に情報が入り続けているため、DMNが記憶を整理する妨げになります。
DMNに良い仕事をしてもらう(=創造性を発揮してもらう)ためには、**「デジタル・デトックス」**を伴う、良質なぼんやり時間が必要です。
例えば、散歩(特に自然の中)、入浴、単純な皿洗い、窓の外を眺める、といった時間です。あえて「何もしない時間」をスケジュールに組み込むことが、結果的に脳のパフォーマンスを上げます。
2. DMNの暴走を「今、ここ」で止める
もし、DMNがネガティブな「ぐるぐる思考」を始めたことに気づいたら、マインドフルネスの出番です。
深く呼吸をしてみる。今、聞こえている音に意識を集中する。今、触れているものの感触(服の生地、コップの冷たさ)に意識を向ける。
DMNの活動(過去や未来への思考)から、五感(今、ここ)へと意識のチャンネルを切り替えることで、DMNの暴走にブレーキをかけることができます。
3. 「集中」と「弛緩」のメリハリをつける
CEN(集中)とDMN(弛緩)のシーソーゲームを意識しましょう。
仕事中はタイマーを使うなどしてCENの集中力を高め(例:ポモドーロ・テクニック)、休憩時間はしっかりとDMNを解放する(スマホを触らず、ぼーっとする)。このメリハリが、両方のネットワークの機能を最大限に引き出します。
結論:DMNは、あなただけの「内なる宇宙」
デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)。それは、私たちが意識していない間に、過去の記憶を整理し、未来をシミュレートし、他者に共感し、そして「私」という存在そのものを創り上げている、脳の偉大なシステムです。
それは時に暴走し、私たちを不安や疲労の渦に巻き込みますが、その特性を理解し、手なずけることができれば、これ以上ないほどの創造性や自己理解をもたらしてくれます。
あなたの頭の中で「ぼんやり」と活動しているDMNは、あなただけがアクセスできる「内なる宇宙」です。
その宇宙とどう向き合い、どう付き合っていくのか。
この記事が、あなた自身の脳と、より良い関係を築くための一助となれば幸いです。


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